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‥‥
選挙の誘惑というのは、賭けを迫るということですね。
賭けを迫る、という場合には「脅迫ペナルティ」ではなくして、
むしろ、“勝てそうだ”と錯覚させるような「意欲コントロール」による、自発参加の誘導が必要となりましょう。
胴元が、これらの客となる人達を全員「負けさせたい」との
希望を抱いたときには、少しは勝たせるしかないはずなのです。
したがって・・・・これまでにも左派は少なからず勝つことが出来たでしょう。総じては負けていても左派は
辛勝ベースや増分でかんがえているはずで、小さな勝ちをことさらに誇示したと思います。すると周囲も
(…自己の徒労を認めたくなくて、今までの味方の釈明に飛びつくということなのか…)期待分を上乗せ
し、右肩上がりの短い線分をグラフ全体に延長させ、さも天下を取ったかの気分になれるわけですね。
しかしながら‥‥冒険譚ならば途中の苦難は必ず報われることになっているでしょうが、
たとえ左派が正義を体現するのだとしても、正義が勝つ保証など何処に有るでしょう…。
現職と新人でも、選挙資金を考えれば公平な競争が出来るはずが無いと思えます。
他方では世界の支配そのものまでが、現職と新人という図式であるような、「現職と
新人の二重構造」だとすると、局地戦の話はまた意味が違ってくると思います。仮に
(地方)選挙区レベルでは新人有利の逆転が起きたとしても、
支配レベルでは、常に…圧倒的に現職優位のはずなのです。
この差は長い歳月が積み上げた半絶対的なものなのでしょうね。つまり、「少なくとも二重構造の一方では新人であり
続けるような真性左派」は、勝つことが非常に難しいゲームへの参加を強いられているわけでしょう。(しかし国民登録
という制度を思えば、親ゲームとしての制度国家を承認する限り、子ゲームを下りることが許されない‥‥、また武器と
資金を取り上げられては組織暴力革命の道も閉ざされ、いわれるがままにゲーム(…所謂“勝つまで負け続ける”形の、
不能解の試行)を続けるしかないところに追い込まれているというのですね。こう考えていく際に、ゲームに勝てる時という
のは、「現職が負ける確率として“経費”に織り込み済みの、現職敗北の回」(周期的)なのでしょう。そして、いま一つの
勝機としては(勝てるケースというのが)それはまさに「世界支配の現職が勝たせたく思う場合」に…限られてくるでしょう。
現職のしもべとしてなら、(必要に応じて、晴れて)新人は勝利を手にすることが出来るはずです。(拘禁としての完全排除の
段階からのこうした展開を、抑圧段階とも呼べるでしょう‥‥すなわち“改造(変節)人間”としてポストを与えられる、取引成立の
ステージでしょう)。“取引の成立が無い場合にはこの地獄は、十回に九回負けるトランプを毎日死ぬまで続ける無間地獄である”と
いえば少しは「改心」してもらえるでしょうか。…とはいえ、もちろん例外はあるとして例外の対象は「大勢に影響を与えない政局・
地域」の候補であろうと思われます。“そういうこと”なら「大目に見てくれる」はずなのです(…原資は潤沢でも時間コストの削減
などと自在に手を抜けようし)。また「巨大異変のイベント」前の(縁なき)小事には寛容でしょうね。何れにしても、
トータルとして顧客達に面と向かう1者が必ず勝てなければ、営利のギャンブルも出来ようはずがないでしょう。
選挙では投票率という名の参加人数が、権威源泉であると思われます。したがって選挙では、強制でも選管マスコットの呼び
掛け活動でも、要は、この権威を徴収したいのだと思います。只で集め供出されるのがさも「普通」であるかに教育することで、
権威価値を低位に抑え、容易に、続々と「権威単位」を投票受付窓口へと“搬入”させるのですね。…そもそも政経の基本は、
少なく与えて大きく取るということでしょうから、もしこの公理が適用できるとすれば如何な収益構成になるかというと、権威
(選挙自体への信任)を暗黙に回収しつつ、勝敗のほぼ定まった“馬や舟や人力(…事実上の八百)にbet”させる形なのでしょう。
じっさい、選挙に影響を与えるとすれば、候補者選びの帰趨よりも、選挙自体の無効化のほうが、手っ取り早いかもしれないわけ
です。しかし、学校教育(基礎洗脳)には巨額の収容所運営費が割り振られるように、国体護持予算が組まれているはずであり、
選挙は“まっとうな市民”の「義務権」とされているでしょう。といっても、これはおかしいのですね。権利なら棄権は当然の
ところでしょうが、わざわざ権利を義務として渡さなければならないとすれば、それが、まさに「義務」だからだと思います。
一回お遊び頂くという投票儀礼で御足労されたとの権威は賜り、当選者はしっかり権威付けられ、他方で「死票」を出すわけでしょう。
義務とは強制の糖衣名であるとして、強制というからには、最小限それが、必須の国体護持要素であることを意味するのだと思い
ます。つまり勝てるかもしれないという夢を買わせて「国民」のポケットにある金貨(権威)は取るという籤が同じ系統の人が十中
八九勝つような国体護持という安定支配ですね(…大昔は選挙をしなくても、血そのものに権威があったのでしょうが)。主権を
いったん「国民」に渡して即座に回収するような、まどろっこしい間接性を持ち込み権威洗浄を始めたような、子供騙しというの
でしょうか…。ちなみに最近の(某)宗教陰謀映画は結果的に(…と見えるように?)、血脈の権威も高めたのだと思います。
人権として視て、享有権としての選挙権というものは虚構だと思います。選挙権とは「お楽しみ抽選券」のようなもので、
行く必要の無い新規オープンの店が発行し、路上配布する体のものではないでしょうか。それならば選挙(多数決)と
一生関わらなくてもいいと思います。つまり“人類普遍の原理”を知る必要すら無いというわけですね。これで全員
参加の民主主義は、少なくとも、その一角が陥落したということになるかもしれません。もとより、それは棄権との
観方よりも、割引抽選券の屑篭行きといったところでしょう。そして、選挙そのものへの承認権を自分が常に手に
していると判れば、おいそれと只同然で手放したりはしないはずです。もしそれを渡してしまうと(明らかな不正
ならばともかく、)選挙結果への批判は叶わなく、許容されなくなるでしょう。またときとして、「不正のリスクが
無いと見做して承認した」との“道義”系のミスを糾されたりするかもしれないわけですね。このように投票の
瞬間には(隠されるかの)権利の遣り取りがあると思います。〔権利の押し付けによって真の享有権を手放し、
関わらない自由(…全ての怪しさからの避難余地)を…または自由な魂を虜とさせる、そういう誘惑なのでしょう〕
なお、通貨でも証券でも得票でも・・・そして帳簿も、改札記録(組織風のサイン入りカードキャンペーンで)も、およそ
電子化されたものは総計地点の端末で何とでも出来るはずです。ソーシャルなパスワードホールを一次元とすると、
ケーブル上の被覆に関する電磁操作では二次元、焦点指定による直接照射の場合は三次元(…三叉系で四次元
相当)、こうした抽象的なものから、剰余増刷による具体物まで可能で、この場合は偽造ではない‥‥ということですね?
昨今は、市民運動の手法が右派、宗教団体から積極的に採用されるようになってきているのだと思います。
他国に企画された多発革命運動、特定議員候補への大掛かりな(…地元の輪や、選挙活動でない)応援運動、
少子母体の同権優遇運動と性概念の解体、不安の醸成と空白への家庭秩序供給運動といったものが見られるかも
しれませんが、弱者の取り分だったはずの市民運動も曲がり角にきているのではないでしょうか。小規模な動きにすら
“敵兵”が潜り込むという形態が、固有の宣伝団体から流動的な運動そのものに及んできているともいえるかもしれません。
ともかく運動の方向と質を見極める「消費者の眼」のようなものが必要ということなのかもしれないのですが、手弁当の運動
だったはずのものが資本を投じて綿密に編成された(マニュアル・スケジュール付きの)多重偽装だったりする可能性を素人は
判別できるはずもないでしょう。最も良いのは政治運動に関わらないことだろうし、しかし、それでも“体育系サークル”を擬した
宗教活動は見られるわけですね。宗教はもともと“個人擁立”運動的な側面が有ったはずで、政治運動の主力に転じて機能
する素地は十二分に存したと思います。とりもなおさずそれは「左派が宗教と同じ手法を重用した経緯」を証言するのですね。
さて、そういった左系&諸宗がともに歩み相争う(かに見えて「運動価値」自体の一つの方向へと収束・相補しているよう
な…)まさに多数化運動の究極は、(極大という意味では)全員統合なのだと思います。ただ、陰謀が安定的に
行われるかの深部安定の世界観を採る立場からすると、統合に向けた余分に姦しい、過当競争の世界
というよりは異様な静寂を保つ、支配極相の世界に思えるのです。換言すればこれは、安定統合(済み)
世界ですね(食傷、充分なのはベクトルとしての運動ではなくスカラーとしての管制ということのはずです)。
これの意味するところは「自由に対する恐怖の兆しとは監視」であって、これが生殺隷属の支配の原基なの
でしょう。恐怖の兆しと支配体制を結ぶのは眼(僅かの隙から覗き見る片目)という監視の象徴ですね。この
監視作業を被監視者を使役して行うはずで、原点oを中心とするaobの、大監視(両翼)および相互監視(底辺)が
世俗の抑圧構造となるでしょう。もし仮に普通という具象(パラメータ代入)概念が、テンプレートとして監視の基準で
あるとするときには「普通」(対象)を「世俗」(主体)が媒介している、との(双璧密着)図式になるのではないでしょうか。
>まぁ真面目で勤勉で優秀な人々が 誠意をもって地獄へ到る道を舗装してくれて
自分の墓を掘らせ、また運ばれてくる仲間の墓を掘らせておく…というのがマフィアや
ナチの慣習でしょう。その際に「労苦・恐怖・損傷」(…大抵は死)が含まれていることに
気付くのだと思います。これが支配を受けて要される「労働の献呈(労働抑圧)・内面の
献呈(インプリント/拷問、忠誠/屈辱、パニック/絶望)・健康の献呈(身体加工)」の三位
一体ですね…。支配対象には「全てを」「自主自動的」に為させ、コストダウンを図り
つつ…好適な「生産・奉仕、危険死病の代役に」「地域・階級に応じて」充当したり、
また搾りきって有効利用するには個個人的資源そのものも分別使用するのですね。
>だからと言ってそこから落ちこぼれたヤツは巻き返しを図って破壊を望むだけとか
そういうことですね。まさにそれが「内外」分別回収なのだと思います‥‥排除少数
というのは環境独占により、生存物流から排除され、「生存の維持」もしくは“生誕の
意地”の為に通常は絶望の余り即物即決的に破壊に向かい、「討ち死に」しますよね。
これが“打たせて取る”モードといえるなら相手に転嫁する意味では選挙民「主権」とも
通底するでしょう。自己責任という表示の大義があれば、処断もスムーズに思われます。
また抑圧と排除の分水嶺は体制趨勢(時流、宗教段階n)との相性でも決まると思います。
つまりは、選ぶにも間髪を入れず、自動で何れかの処理機に配当するような、“分岐式コンベア”ですね…。
>(やれやれ。)…別の何かを萌芽させなけりゃね!でも別の何かもあやしかったりして。
疑って、新たな規格をこれからは(おしきせではなく)選定すればいいのだと思います、ただ
「選別眼」などは教わっていないだろうから、(メタ規格として…これも選択対象ということで)
「ヒントを差し上げます」と…多くの運動にはボトムが無いというのですね。ボトムとは最重要
基準(但し絶対規範としての…)のことだと思うのですが、もしこれが無ければ、「学制を含む
体制」史の系譜や、体制下部団体、保守勢力、もっとあこぎな(残酷)組織と同じ結果になって
しまうでしょう。…これらは先行する「規格(・)集合」というので「構築」と呼んでいるつもりです。
或る路上系運動などは、新興運動としては当代随一といえるほどの独自規格を有して“注目株”
ですが…なまじ反権威・親論理であるために、(表裏)知識主義の時世では浸透力が強い割りに、
まずは充分に処理、練成すべき「規範」に立脚しておらず、一代(長期)で上部規格の充実を成した
とすると、その分だけ、文字通りの危険思想(危険誘発思想・新種抑圧思想)に陥って見えるかもしれ
ないわけです。こういう累積運動(現規格増築)のことを、「中間構築」と呼び分け、“残念な運動”と位置づけるのですね…。
ところで「怪しい」というのはどういう意味か分かりますでしょうか。例えば「矛盾していそう」「裏で悪に手を
染めていそう」「間違った方向に導いて、自他や不特定第3者が、刑事に抵触する大変な目に遭いそう」「無力で
時間と投資が浪費に帰結しそう」との項目に「演出造形的な不気味さ」とか「際限なく続く不可解さ」といった“要素”が
加わるかもしれません。後者だとこれは利用(…多数化ではありませんが)価値があるかもしれませんね。また平仮名を
「妖しさ」と解して性的な因子とすればこれは諸刃でしょうが…。(暴行宗派の被害者を鞭打つのではないとして、)ただ元凶、
契機として潜在的には、抑圧された「何かしら豊かでない寂しい性」への希求が満たされそうに嗅ぎ付けて積極的に深みに
入った人もいるかもしれません。“ひも理論的に言えば”…大小個人のカルトが私利私欲ではあっても、「結局は食い物に
されただけに終わりそう」というのでも利害の一致として、その集客力には既に還元、配当される実があるのでしょうね。
「なけなしの大金を詐取されそう」という形の単なるいい夢よりは充実したいい夢なのかもしれません。以上これらは
極端だとしても、足元の救済運動(体制補完)そして「鬱積発散の運動」であるか、教祖や信者が理想社会を夢見て
いるだけの左の永劫唱和運動であるか高度に科学的であってさえ、その種の左派運動に大別されていく気がします。
またそれが(自己の飢餓感・危機感にとっての)対症療法として、即効性があるのも事実でしょう。たとえ結果検証型の
運動が頓挫しても、負けるチームに打ち込んで部活人生を遣り過ごす狙いなら、価値観次第では回収できているのかも
しれないわけですし。・・・ひとしきり悪い例を笑って翻り、あえて真顔でいうならば今を取るか末を取るか(…ただしこれは
先送り左翼に陥るかもしれない…)名実いずれを取るか其処をよく考えるべきでしょうし、配点&総計や期待値計算で済む
問題ではないでしょうね。運動への関与は人生を変えていくでしょうから…(かくあればこそ、“脅す”ほうが良心的なはずで)。
かくいう自分の逆構築は如何ほどかということですが…客観性や倫理性まであっても、この種の行動、活動は
運動契約運動としての義務も無いはずで、「強く」お勧めをしたところで、無理「強い」はしたくないつもりですから、
御自身で観察された上、「自己存在を」「或る程度迄」預けられるものかどうかも自ら判断して頂ければ幸いでしょう。
そこで漸く「超天才」の話に戻れるはずですが…“こういうそれ”が難解でない人こそ、「超天才」なのかもしれません(笑)
※
…運動の底部は規範でなくては、生産・分配‐経済ですら、第2義と知られる限りで。(趣味生死)
(補遺)
1・・・怪しさは全てに(運動、集合、一般「真理事実」群に留まらず全てに)関わるとして、実在論・メタ推論以外は判断を直観に切り替える策。 →副仮言
2・・・虚しさが、恐れの他に支配対象に与えうる“多層‐単相”の1つだとしても畏れの受益の“直─快”には用いず、「苦役・供物」に安堵/感謝して楽しむ形。
3・・・一元的万象と基底を混同しない、論理直結で演繹せずの、真理‐論理・倫理、法則という、2部3層4態の峻別。a) →型規格
逆に人格を、対象の魅力から切り離す弁別。b)
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(測度‐限界苦痛 ̄価値)
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『事態真実言明として何が有ろうと、可能形動詞(が性格づける)句の、枝、一部である場合には…命題付帯外部』
『叙述が、思うという仮定ならば、主格体言の対象の…実在の有無は、絶縁、不問で吸収されて…命題付帯外部』
‥‥