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T,沖縄ヤクザの成立
戦前、沖縄にはヤクザはいなかった。ヤクザの成立は沖縄戦直後からはじまる。
@コザ派の成立
終戦直後の「戦果アギャー」(注1)
・米軍物資の窃盗、横流しは終戦直後の民衆の生活になくてはならないもの。
・犯罪という認識はない。
⇒本土・沖縄・与那国・台湾・香港を結ぶ闇貿易ネットワーク
・「戦果アギャー」の拡大、武器や物資をめぐる国際闇取引。
・漁船による危険な航海(糸満漁夫)やブローカーが沖縄ヤクザのもとになる。
・米軍からみれば悪質な窃盗犯グループ/沖縄人から見れば勇敢な働き者(生活物資の供給)
=曖昧模糊とした小社会
⇒軍施設の強化、物資不足の改善⇒「戦果アギャー」の終焉
・1949年 中華人民共和国成立、1950年 朝鮮戦争勃発→基地の強化
cf.中共軍への弾薬の流出(沖縄・与那国・香港ルート)
・貿易の開始→経済、生活の復興→闇貿易の取締強化
・「戦果アギャー」、一部の闇取引を除いて多くは蓄えを元手に商売や事業へ。
⇒特飲街の用心棒役へ
・1950年〜 米軍兵士向け飲食店(特飲街)の整備(コザ)(注2)
米兵による料金踏み倒し、器物損壊、暴行などの横暴
・→用心棒を雇う。
「戦果アギャー」の親分、喜舎場朝信を中心とするグループ
→コザ派の成立(1952年ごろ)
A那覇派の成立
空手道場の復活→門下生が収容所から戻る→生活の糧としての用心棒
コザに遅れて特飲街の整備
空手が最強であることを理由に、又吉世喜をトップに組織化→那覇派の成立(1960年ごろ)
・「戦果アギャー」からはじまり、闇貿易で本土ヤクザなどとも交流があったコザ派と、空手道場が
もとになった那覇派。(沖縄ヤクザの二大勢力)
・「戦果アギャー」と用心棒―アウトローではあるが、沖縄人社会が維持されるには不可欠。
戦争と米軍による支配が沖縄をヤクザの必要な社会に変えていったといえる。
U,沖縄ヤクザの抗争とその発展
5次にわたる大抗争(1964年〜1992年)
抗争ごとに全面戦争、多大な死傷者数。
⇒要因として、
@身内の結束が弱く、親分子分、兄弟分の関係もゆるい(もともとヤクザの伝統がない)。
A地縁・血縁をもとにした小集団が離合集散を繰り返し、二派に集約(特殊な成立過程)。
B単一組織であり、二次団体以下の組織上の分化がない。
暴走のブレーキ役としての親分衆の力が小さく、小さな事件が全面戦争に発展しやすい。
狭い島での内部抗争なので憎しみも大きい。
第4次抗争
沖縄ヤクザ史上、最大最長の抗争。
1970年、本土復帰にともなう、本土ヤクザの進出に備えコザ派と那覇派が大同団結(『沖縄連合旭琉会』)
するものの、内部抗争(旭琉会800人vs上原一家50人)を発端に第4次抗争(1974年〜1981年)勃発。
予期したとおり、本土ヤクザ(山口組)の進出も絡み代理戦争に。長期化。沖縄県警は組員の70%を検挙。
指揮官を失った両陣営(暗殺と大量検挙)→「抗争状態の消滅」
旭琉会と山口組は友好関係を確立。上原一家は消滅。
V,東映映画『沖縄やくざ戦争』
『沖縄やくざ戦争』1976年、東映、監督 中島貞夫 主演 松方弘樹
復帰前後の沖縄ヤクザの抗争(第3次〜第4次前半)を、事実をもとにして映画化。
本土復帰を翌年に控えた沖縄を舞台に、沖縄やくざ対本土暴力団の壮絶な戦いと、沖縄やくざ組織の
内部抗争をドキュメンタリータッチに描いた活劇映画。大城派とそのライバル国頭派が結成した「沖縄連合琉盛会」
における内部抗争、そして関西の暴力団旭会の梅津組の沖縄進出が破壊の連鎖を生む。本土の暴力団との結託を
裏で図る者、報復に燃える者、そして最後まで仁義を切るもの。暴力と肉体を通して当時の沖縄の苦悩と欲望を
描ききった懇親のやくざ映画。
そのドラマのなかに、沖縄というフィルターを通過した当時の日本のアメリカへの眼差しが垣間見られるのも面白い。
この作品中における沖縄のやくざ世界の描写があまりに生々しかったため、当時の沖縄では上映禁止になったという
いわくつきの作品である。(山形ドキュメンタリー映画祭2003 琉球電影列伝より)
『沖縄ヤクザ50年戦争』洋泉社ムック040 2004
『琉球電影列伝 境界のワンダーランド』山形国際ドキュメンタリー映画祭実行委員会 2003
『空白の沖縄社会史―戦果と密貿易の時代』石原昌家 晩声社 2000
(注1)「アギャー」http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/itoman.htmより
糸満は、集団で行う勇壮な潜水追込漁 「アギャー漁」で有名である。
サバニ7〜8隻に30〜40人の海人が乗り込み、深度20〜30尋もの海底に素潜りで潜って網をはり、
水底で共同で魚群を網に追込む海の狩りである。
そのための水中眼鏡(みーかがん)は糸満の発明品である。当初(明治20年頃)は、宮古の池間島では
糸満からもたらされたみーかがんは牛一頭と交換されたという。
漁法についての高度な技術力と、共同作業という組織力、国境にこだわらない広域な移動力 − これらが
糸満の海人(うみんちゅ)の社会である。
(注2)「コザ」 http://sound.jp/procal/column/kina/kina01.htm のキャッシュより
コザと呼ばれた街が沖縄市に改名され、来年で30年を迎える。沖縄ブームと呼ばれる現象を考えた時、
コザは特異な光を放つ街であった。テレビ番組「アンタッチャブル」の世界さながらにBC通り、ゲート通り、
コザの黒人街は、ギャンブル、セックス、ドラッグ、ストリップというデカダンスカルチャーとともに、
ロックとジャズが花盛りであった。それを包むように不夜城と呼ばれた中之町や遊郭のあった吉原で沖縄の
人たちは独自の歓楽街文化を謳歌し、アメリカ文化とコザ文化は棲み分けをしながら融合し、ロックとジャズ、
沖縄音楽はお互いの顔を窺いながら接近していった。やがてベトナム戦争の特需が消えかける頃、厭世観から
兵役拒否がおこり、黒人の差別運動に火がつき始め、白人街のゲート通り、将校クラブ街のBCの牙城は崩され
、黒人暴動に発展していった。コザ暴動は正にそのような背景を背負い、沖縄のカオスを噴き出させたのである。
暴力の連鎖はやくざ戦争にも拍車をかけ、復帰を目前にして皮肉にもコザの名をバイオレンスの街として
日本中に知らしめることになった。
///////// コザ暴動 /////////http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4722/l/koza.html
1970年 9/18
糸満ロータリー付近、米兵(軍曹)の酔っ払い運転で、歩道を歩いていた女性(54歳)を圧殺。
→青年たち中心に、MPへの事故車引き渡しを拒否。ロープ・テントで、監視体制をつくる。
→事故対策協議会(地元青年団・人民党・社会党・教職員会など)発足、警察を通じて米軍に申し入れ。
※司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求
→12/11「証拠不十分」により無罪
1970年 12/20
コザ市午前1時、軍雇用員の男性、米兵(教務兵)の運転する乗用車にはねられる。
MPは被害者を放置し、事故車を持ち去ろうとする。
→千人近い群衆、MPを囲む「どうせまた、無罪か!」
数人の投石に怯えたMPは数十発の威嚇射撃をする。
MPに挑み「ファイト・ミー(やるか!)」「たっくるせ!」
ピストルを発射しながら、MPは逃亡する。
→事故を起こした教務兵は袋だたきにされる。
MPカー・米軍トラック・黄ナンバーの乗用車を引きずり出し、次々と火をつける。
※家屋に飛火しないよう、道路の中央に引きずり出してから、火を放っている。
家屋から略奪の被害届けは一件の報告もない。
→午前2時半、5千人を超えた群衆は、中之町交番・諸見交番にも、投石をはじめる。
胡屋十字路〜普天間〜北谷、ゲート通り〜嘉手納第二ゲート、次々と米兵車輌に放火。
→米兵2百人(カービン銃武装)・機動隊百人で、ゲート付近に阻止線をはる。
群衆はなだれ込み、ガードボックス・米人学校などに放火。
米兵2百人に沖縄人ガード50人を加え、ゲートから押し出される。
機動隊5百人が増援され、MPと群衆の間にわって入る。
→午前4時半、各所に機動隊・米軍(ガスマスク姿)の阻止線、上空のヘリからも催涙ガスをまく。
→夜明け頃、群衆はどこともなく引き上げ始める。
黄ナンバー75台炎上、19人逮捕、警官5人・沖縄人十数人・米兵十数人が負傷(警察把握)。
1971年 1/8
騒乱罪適用。10人(バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人)を逮捕
→騒乱罪では起訴できず。
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