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「低度情報化社会」ーWebは本当に進化しているのか?個々人は自分の理解できる情報だけで充足してしまう。
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投稿者 TORA 日時 2006 年 11 月 07 日 15:20:51: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu131.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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「低度情報化社会」ーWebは本当に進化しているのか?
個々人は自分の理解できる情報だけで充足してしまう。

2006年11月7日 火曜日

◆低度情報化社会―Webは本当に進化しているのか? コモエスタ坂本【著】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4334933920.html

◆インターネット黎明期の著作権意識

前章でコンテンツの劣化スパイラルの可能性について述べたので、この章では、主にコンテンツと著作権について述べる。最初は、著作権そのものの問題だ。デジタルメディアにおける著作権意識が、この十数年でどのように変遷していったかを説明するため、私が1995年にあるCD-ROM雑誌で発表した「著作権なんかいらない」というタイトルの記事を抄録してみたい。

この記事は、1996年から2000年ぐらいまで私のWebサイトに置いておいたので、目にしたことがある読者もいるかもしれない。私も自分の古い文章を引用するのは少々気恥ずかしい面もあるが、根本的に述べたいことはほとんど変わってないという意昧で、明らかな間違い以外、改変しないでおく。また、文中に登場する単語に時代が垣間見える。時代の空気を感じるとともにそのまま読んでほしい。

【電子メディアにそぐわない著作権】

電子メディア関係に顕著だと思うが、日本では急激に著作権意識が高まっているようだ。もちろん昔から盗作騒ぎなど、著作権絡みの話はたくさんあった。しかし、全てがデジタルに置換可能になり、複製が簡単になった現在、著作権の話は特にややこしくなっている。

「ソフトのコピーはやめなさい」と声高に言う輩が増えた。なぜダメなのか。コピーした方が楽じゃないか。著作権者に複製権があるからだって? それはその通りだ。では、ソフトを入手した人間がそれを複製する権利は許されないのか。複製機器は大量に用意されているのに。

例えば音楽ソフトで、あるCDの曲順を変えて編集したテープを作ったとする。それはオリジナルよりナイスだ。みんなに聞かせたい。と、そう思ったとする。それは複製可能性が生んだ新たな作品であって、新たなオリジナルだ。

もっと問題を難しくしてみよう。サンプリング&リミックス音楽なんてのもある。こうなると、元の作品は単なる素材にしか過ぎず、オリジナル/コピーの別など、もはや論じるのが不可能だ。

著作権法には、二次的著作物という概念がある。二次著作者は一次著作者の許諾を得た上で、権利を損なわなければ、新たな著作者としての権利が与えられる。しかしこれは作品の自由度という点では、極めてまだるっこしい。法的運用では、作品の主従関係を明示する事が必要なのだが、そもそも作品のオリジナル/コピーの区別がつかないところでは、そんなものに何
の意味があるのだろうか。線引きをどこでするか、というくだらない議論に明け暮れているのが、著作権をめぐる現状なのだ、

コンピューター・ソフトの分野では、全てのプログラムは、無料で配布されるべきだと唱えている人たちもいる。アメリカのGN∪プロジェクトがそうだ。彼らは、ソフトにソースプログラムを添付する。ある人の手に渡ったプログラムは使いやすいように書き換えられ、またそれが次の人に渡る。人から人へ渡っていくうちに、オリジナルからかなり変容してゆくかもしれない。それでも彼らは構わないのだ。オリジナルのアイディアに自信がある、というのもそうだろうが、人の手に委ねるというのもまた素晴らしいアイディアのうちだと考えているからだろう。この態度、加工が容易なデジタルメディアでは非常に潔いと思うのだが。

【著作権は淘汰される】

私だって著作物の財産権で金を稼いでいるので、著作権に関してあれこれ言うのは、実はかなりの覚悟がいる。しかし、著作権について考えていけば考えていくほど、これがデタラメで、一部の人間を保護するものでしかないとしか思えなくなるのだ。例えば、著作権の保護範囲は死後(または公表後)50年に限られている。昔の作品は自由に使っていいのだ。これが示すところは、結局著作権は財産権保護でしかなく、作品性を保護する人格権など元々存在しないという事だ。

人格権そのものに一番関わるのが、原作者だ。人格権の存在性が希薄だとすれば、財産権の保護で得をするのは、原作者が大低委ねるであろう、流通及び管理会社・団体という事になる。結局著作権は、「作品」にとって最も重要な「表現」や「アイディア」は不在で、それに付随するゼニ金の方だけに興味がある人たちのツールに過ぎないのだ。

現代という名の近代資本主義杜会が行ってきたのは、製品と貨幣との交換にすぎない。製品は完成品だと思い込んでいる誤謬が、おそらくは資本主義の限界なのだろう。物中心の杜会には限りがある。これから交換されるものはアイディアそのものだ。その意味でも、著作権はネックなのだ。

また著作権ほど、「作品」を作る上において自由度を損なうものでしかない、という事実を痛感するものはない。「これを使っちゃ無断引用なのでヤバイ」、などという自主規制は「表現の自由」を奪う(そもそも「引用」は「出典を提示しさえすれば、無断で構わない」という定義があるのだが、それすら理解されておらずに過剰な規制が行われているのが現状だ)。

時代も確実に著作権レスの方向に向かわざるを得ないと感じる。表現のためのメディアや、複製の方法論が増えれば、それに対応した法整傭やガイドラインなどは必ず追いつかなくなるだろう。またそもそも、何がコピーで何が新しい作品なのかは判定がつかなくなるのは自明だ。

著作権にとってみれば、複製機器の進歩は対応に苦慮するだけの難問だ。しかし世の流れから見れば簡単な話。全ての複製可能性とそのスピードは、ある作品のアイディアを早く広めるのに有効だ。ある人のアイディアは、他の人に渡ることにより、また別のアイディアを生み出す。表現者のエゴイズムによって、他の表現者の可能性を奪う事はできないのだ。

明らかに『ジャングル大帝』のパクリである、ディズニーの『ライオン・キング』を、手塚サイドは訴えなかった。ディズニーに対してのコメントは難しいが、むしろ私は手塚サイドの態度を高く評価したいと思っている。「天国の手塚治虫が喜ぶだろう」という手塚プロ側のコメントが、表現に対する姿勢を端的に表しているように思う。

【表現者のエゴイズムを廃せよ】

表現の源はアイディア、発想そのものである。これを他人と共有することを借しんではいけない。これからのメディアに現れる「表現」は、スピード感をともなって多人数で交換され、いい意味で極めて匿名的に共有されてゆく。パソコン通信の会議室で繰り広げられる、ブレーンストーミングなどがいい例かもしれない。多くの人が好きな時間に、方々からアクセスする。いいアイディアであれば、それが誰の発言でも構わない。これをもっと突き詰めていけば、表現者のエゴイズムが希薄な世界を形成できるだろう。

また、脳科学の発展は、個々の脳の意識状態を徐々に明らかにしつつある。遠い将来の話かもしれないが、いずれ人がどういうアイディアを持っているかを、手に取るようにわかる日が来るだろう。そこにはプライバシーなどという馬鹿げたものは存在しない。そもそも本質的には「隠すべき自己」なんてありゃしないのだ。エゴイズムは自らの首を絞めるだけで、身を減ぼす基になるだろう。

ともあれ、時代はそういう方肉に動くと私は断言する。しかし現在は過渡期。今後淘汰されるであろうエゴイストどもから、身を守る方策を考えておく事が重要だ。

◆著作権、この10年

ここまで、約10年前の私の考えを読んでもらった。文中で「パソコン通信の会議室」という言葉が出てくる。この時期、私はすでに自分のWebサイトを開設していたが、それは単なる静的HTMLべ一スのものだった。当時のコミュニケーションのべ一スはもっぱらパソコン通信か電子メールであり、2ちゃんねるやブログやSNSはおろか、Web掲示板すら存在しなかった状況だったことをご理解いただきたい。

そして、10年前に考えていたよりもはるかに「過渡期」が長い。あの頃の私は、今よりもテクノ・ユートピアの到来が早いことを信じ、渇望していたような気がする。今の私がディストピアを渇望しているわけではない。ただ時代のディストピア度が高いだけなのだ。

話は戻るが、おわかりのように、著作権をめぐる時代状況は今に至るまであまり変わっていない。ある面ではむしろかなり悪化している部分があるとも言えるだろう。既得権者である「エゴイスト」たちが激しい抵抗を見せているからだ。

1998年、別名「ディズニー法」と呼ばれるアメリカの著作権改正では、個人著作物は著者の死後70年、企業の著作物は公表後95年と、それぞれ20年ずつ延長された。アメリカに限らず、日本でも著作権管理団体などによる、コンテンツ著作権の囲い込み・締め付けは厳しくなっている。

それとは逆に、著作権解放の動きも高まっている。上記の引用文の時代、著作権論争のべ一スは「フリーウェア」と呼ばれるソフトウェアをめぐるものだった。当時のパソコン状況から、まずクリエイティブな作品として最初にネット上で発表されたのは「ソフトウェア」そのものだったからだ。

そのソフトウェアは、ゲーム等からパソコン上で使えるちょっと便利なツールまで、よく出来ているものは「シェアウェア」としてお金を取ろうという動きを見せた。そりゃあ労力をかけて作ったものに対しては代価が欲しいからだ。

シェアウェアの多くは、代金を払うか払わないかはユーザー任せで、「気にいったら払ってください」みたいなノリのものも多かった。メールウェアなどと称するソフトもあった。これは「気に入ったらメールください」だ。

このように、小さいレベルのソフトウェア作者は、常に一般開放する際のリターンの落としどころに敏感だった。フリーで開放したとしても、それを誰かに商用利用されることは嫌っていた。自分が与えることと、それで予想される「報酬」について考えていた。この報酬はもちろん常に金銭とは限らない。

私自身もフリーウェア作者だった。デジタルと著作権意識、そして報酬系に敏感になったのは、この時代のソフトウェアをめぐる議論の応酬を通してである。まず日米の著作権法の違いや、「パブリック・ドメイン」などという新しい概念の輸入があった。

パブリック・ドメインとは、著作物の著作権を放棄しておくことである。これにより、著作物に対して自由に改良を施すことができるが、反面誰かがその成果に対して独占的利用をすることを防げない。すなわち、せっかく.元の作者が作ったものを他の人に委ねてよりいいものを作ってもらおうと思っても、途中で勝手に商売されてしまう可能性もあるということだ。

これに対して、コピーレフトは著作物を他人に委ねる際、その自由な改変や再配布を認める代わりに、その派生物もコピーレフトに従うとしたものである。

もちろんコピーレフトはコピーライトの反対概念なのだが、ただ単に著作物の権利を放棄するのではない。著作者の権利を放棄する代わりに、著作物の自由改変・引用・再配布などの権利をも保護していくという考え方なのだ。

それとは別に、前述したGNUプロジェクトなどをべ一スとして、OSやライブラリーなど、ツール的なプログラムの公有化という考え方も進んでいった。お互いに共有し、編集・改造しあった方がより良いものが作れるという互恵性は、実際に参加してみればすぐに実感できたからだ。その考え方が結実したものの1つが、前述したLinuxというOSである。

ただし、こういった「公有」意識を共有できる対象は、ある条件を必要とする。それはおおむね「個性的でない」ということだ。芸術作品のようなものを公有するには、まだまだ意識が追いついていない面がある。

さて、時代は流れ、いわゆるソフトウェアに限らず、ありとあらゆる作品が、ありとあらゆる人によって作られるようになってきた。いちいち列挙することは避けるが、グラフィカルなものからテキストまで、何でも「作品」であり、これに対して作者がどういう態度を取るかがまた難しい局面になってきた。

そもそもインターネットの出現当時は、インターネットは主に学者間で共有される知識データベース・ライブラリーとみなされていた面もあり、今でも学究関係者ではそういう意識を持っているだろう。「論文を引用されてナンボ」という社会でもあるからだ。

論文や考え方iは共有され、引用はできても当然丸ごとパクリとかはできない。名誉に関わるからだ。この発想を、どういう仕掛けによって、またどの分野に対して有効かをずっと模索し続けているのが、現在の著作物と著作権をめぐる状況なのだ。

そんななかで登場してきたのが「コモンズ」という概念である。コモンズは簡単に言えば、現行の著作権法に対して、法的な手段を利用してもっと著作物の柔軟性をもたせるための試み・活動だ。コモンズに関する詳述は省略するが、クリエイティブ・コモンズリなどが活動の中心になっている。 (P177〜P185)


(私のコメント)
最近はユーチューブの動画の著作権問題や、「2ちゃんねる」で使われていた「のま猫問題」など、ネット上の著作権の問題があります。そして10年ぐらいから発生したインターネット文化に、現代の著作権が適応できずに様々な摩擦を起こしている。

もともとインターネットは学者の間で共有される知識のデーターベースとして使われてきた。それがパソコンの普及と共に一般の人も楽しめるものとなり、商業ベースでネットでひと稼ぎしようと言う業者も出て来た。

そのようになると、今まで知識のデーターベースで使っていたのに、同じインフラを金儲けで使うために著作権法で厳格に取り締まれという人や業者が現れて、今までの利用者に著作権を楯に自粛を要求するようになって来た。

株式日記も1997年の5月から書き続けていますが、その頃はウエブサイトも限られて、時事問題のサイトなどは田中宇氏やビルトッテン氏など数えるほどの数しかなかった。株式日記も当初は正しく株式日記だったのですが、経済問題などを書いて行くうちに時事問題のサイトになってしまった。

当時は個人で毎日のように時事問題を論じたサイトは株式日記ぐらいしかなく、後は伊藤洋一氏や吉崎達彦氏のようなシンクタンクでレポートを書いていたようなプロの人しかいなかった。当時はGOOGLEのような検索サイトは無く、YAHOOのメニューでサイトを探すしかなかった。

このように株式日記も試行錯誤でやってきたのですが、「2ちゃんねる」ができてGOOGLEも出来て2002年頃からブログも出来て、HTMLがわからなくても簡単にウエブサイトを運用できるようになった。最近では時事問題を論じたサイトもたくさん出来て、ネット上でも論戦が繰り広げられるようになり、マスコミをも敵に回すほどのパワーもでてきた。

このようにウエブサイトやブログが増えてきたので、株式日記も他の人が書いた記事を紹介しながら(私のコメント)を書いてきたのですが、当初はURLだけをリンクして書いていた。しかし2,3年も経つとリンク切れになる事が多く、必要な部分をコピーして引用するようにした。

株式日記も10年近く書き続けてくると、株式日記が一つの知識のデーターベースとして使えるようになって来た。GOOGLEで「株式日記 キーワード」で入力して検索すると資料が出てくるようになっています。リンクしているものもコピーがしてあるからオリジナルが消えてても読めるようになっています。ブログだと何年も前の記事を探すのは大変ですが、HTMLならメニューからすぐ遡れる。

このように株式日記は個人で毎日時事評論をしている草分けなのですが、たまに、コピーしたり引用したりするのは著作権違反だと抗議してくる人がいる。しかしそのような人はインターネットの成り立ちをご存じないのだ。

インターネットは新聞や書籍などを電子化したものではなく、学会の情報のデーターベースと情報の交換が起源になったものであり、文化が出版業界とは異なるのだ。私は「阿修羅BBS」などにも投稿していますが、阿修羅もニュース記事のデーターベースとして貴重なものとなるだろう。

しかしYAHOOなどのサイトでは阿修羅を検索してもブロックされて出て来ない。ニュース記事をコピーしているから著作権違反だと言うのだろう。しかし新聞記事は2,3週間で消えてしまうから阿修羅にコピーして保存しておく価値があるのだ。

このようにネット界に後からやってきた業者が著作権を楯にコピーを制限しようとしている。ユーチューブの動画投稿にもテレビ局は動画を削除して見れなくしようとしている。しかし動画のデーターベースとしてユーチューブは貴重なものですが、著作権の問題を何とかクリアできないものだろうか?

私のようにインターネットが始まった頃からの利用者として、後からやってきた人たちが著作権を楯にネットに制限を加えようとする行為に腹が立ってならない。


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