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噂の眞相 99年6月号特集2
都知事選にイメージ操作で圧勝した石原慎太郎の知られたくない人間性――なぜ出馬宣言が遅れたのか――。その理由はオウムとの関係ではなく、新潟県にいる女性と隠し子の存在にどう対応し、切り抜けるのか、だった……。――
● 本誌特別取材班
● 予想されていた石原の圧勝
圧勝とはこのことをいうのかもしれない。4月11日に投開票された東京都知事選は、”新都知事”が次点の鳩山邦夫にダブルスコア近い差をつける独走劇で、あっさりと終わった。その新都知事となったのは、あの石原慎太郎。芥川賞作家であり、運輸相や環境庁長官を歴任した元大物衆議院議員……。いや、こんな肩書きなどよりも、むしろ「故石原裕次郎の兄」、「反米タカ派の国家主義者」といったほうがさっと分かりやすいだろう。
それにしても圧倒的な支持だった。なにしろ突然の青島幸男の不出馬で、告示前は「乱戦」「だんご都知事選」といわれながらも、フタをあげてみれば石原慎太郎が集めた票数は、実に166万4千5百票余り。有効得票数の30パーセントにも及ぶ計算になるのだ。 社会部記者もあきれ顔でこう語る。「鳩山や舛添要一、明石康を担いだ自民党執行部、それに創価学会さえも、今回だけは石原慎太郎の圧倒的な知名度、人気を改めて思い知らされたんじゃないか。ただし、石原を含めた各陣営には、はじめからある程度この結果は予想できていたはずです。というのも、石原がまだ出馬を口にする前の段階から、世論調査では、すでに石原が圧倒的支持を集めていたからです」
そう、事前の調査データでも、石原慎太郎の圧勝は十分予想されていたことだった。そして普通に考えれば、だからこそ石原も、最終的に出馬に踏み切ったはずなのだ。
しかし、だとすればである。当選が確実視されているのに、石原はなぜ、あの時告示ギリギリまで出馬を迷っていたのか。
なにしろ他の有力候補が2月中旬にはそろって出馬表明していたのに対し、石原が出馬を表明したのは3月10日、つまり告示までわずか2週間余りという時期だったのだ。
しかもその出馬表明にしても、元秘書グループや自民党の小林興起らが外堀を埋めたため、ようやく石原がその重い腰を上げたかのようにいわれているが、実際は少し違う。
「実は石原が出馬を具体的に検討し始めたのはわりと早い時期で、青月島幸男が不出馬を表明した直後、2月の初めだったといわれます。事実、小林興起が”(石原は)100パーセント出馬する”とマスコミに触れ回り始めたのもこの直後からだった」(政治部記者)
にもかかわらず、石原はその間、いっこうに態度をハッキリさせなかったのである。
「石原の側近は、そのワケをこう説明していましたよ。”注目を引きつけておいて最後にドーンと表明すれば、有権者に対するアピールも新鮮で衝撃的なものになる”からだと。つまり選挙戦術だったというんですが、実際は戦術なんて呼べる代物じゃなかったんです。むしろ”苦肉の策”というべきでしょう。というのも、石原は2月初めから出馬を真剣に考えていたというのに、なぜかギリギリの段階まで、本当に出馬を迷い続けていた
からです」(前出・政治部記者)
もしそうならば、石原が土壇場まで出馬に踏み切れなかった理由は何だったのか。その理由いかんでは、石原が新都知事になることも、あるいはなかったかもしれないのだ。
実をいうと、本誌はすでにその”理由”をつかんでいる。石原は、逡巡した理由を「まだ文学者としてやりたいことがあった」などと語っているようだが、そんなものはしょせんポーズにすぎない。断言しよう。石原が出馬をためらった本当の理由とは、決してこんな格好いいものではない。石原には、東京都知事選を戦う以上はどうしても隠しておきたい、ある”事情”があったのである。
● 怪文書が飛び交ったオウムとの関係
「一説には、石原とオウム真理教をめぐる例の〃噂〃がそれだったのではともいわれています。たしかに石原はここ数年、オウム絡みの噂がささやかれ続けており、彼も悩まされてきましたから」(前出・社会部記者)
実は出馬会見前後から、石原慎太郎の周辺にはさまざまな「怪文書」がバラまかれていたという。ほとんどがワープロ打ちされたA4サイズのもので、その数は、本誌が入手したものだけでも軽く10数種に及ぶ。
たとえばある怪文書では、石原が84年の総選挙で、故新井将敬の選挙ポスターに「朝鮮人」と書いたシールを貼り選挙妨害をしたと書き、<人種差別主義者 石原慎太郎を許すな!>と罵倒。あるいは「在日本中国人留学生会」名の怪文書では、中国を”支那”と呼ぶ石原の歴史認識の欠如ぶりを非難、石原は都知事に相応しくない! と断じている。
事実関係はともかく、石原の差別主義ぶりはたしかにその通りだし、もし怪文書がこれだけならば特筆するまでもない話だろう。
ところが、実際に各所へバラまかれていた大半の怪文書は、この程度のシロモノではないのだ。石原出馬までの経緯、選挙資金の出所、さらに石原とオウムの”関係”に至るまでを詳細に指摘したものだったのである。
政界関係者がこう解説する。
「出回った怪文書の大半は、<石原慎太郎出馬の背景>というタイトルで、4項目で構成された内容もほぼ同じ。おそらく初めの怪文書を次々と打ち直し、あらためてバラまいたものだろうね。前半部分では、選挙資金の出資者として、自由連合代表で徳洲会理事長の徳田虎雄や、例の日本法曹政治連盟主宰・松浦良右の名を挙げ、それぞれ2億、4億を出資したことなんかが書いてあるんだが、<出馬までの経緯>の項にある、出資条件として徳田が公立病院への民間委託参入を要求したというくだりは結構真実味がある。徳洲会が民間委託に目をつけてるのは事実だからね」
なかでも目を引くのが、やはりオウムに関する部分だ。この怪文書の<3、石原の衆議院議員辞職の背景>という項には、両者の関係について具体的にこう書かれているのだ。
<1、末子「ひろたか」は、オウムの在家信者で、麻原が瞑想していた背景の「曼茶羅」を描いたとの説あり。政治的取引で逮捕を免れたとも噂される。(現在行方不明)
2、オウムの林医師は「裕次郎」の臨終立会医で、当時慎太郎の主治医。石原と林の家族は家族ぐるみの付き合い。
3、石原と杉並選出の仁木都議(昨年死亡)は、オウムの宗教法人認可に介在。仁木の死により「死人に口なし」となり、出馬の大きなファクターとなったか。
4、石原とオウムの関係が公にならざるを得なくなった時点で「不問に付す」ことを条件に政界引退。(誰が不問に付したか? 当時の野中国家公安委員長は、最近「息子がオウムの信者で、林医師と付き合いがあったことは知っている」と述べている)>(原文ママ)
これだけではない。さらにはこんな怪文書まで登場するのである。
「<都知事選ご関係者各位 石原慎太郎、議員辞職の真相について>というその怪文書の内容じたいは、石原や四男がオウムの国家転覆クーデターに関与した、というほかの怪文書とさして変わらないものなんですが、ビックリしたのは、この怪文書に書かれている内容の詳細が『中央公論』に掲載されると記述してあることです」(週刊誌記者)
怪文書を読むと、たしかにこう書かれている。<石原氏が何故、国会議員のバッジをはずしたのか、今、一部マスコミでぶり返されていますが、来月発売予定の月刊中央公論に、その詳細が掲載されています。以下がその要点の抜粋です……>。しかも、選挙妨害になるので<4/11前はたとえ事実であっても報道できないとのことです>と、それらしい解説まで付け加えられているのである。
いくら怪文書とはいえ、ここまで大量に、それも具体的なディテールを伴ってバラまかれると、にわかに信憑性も帯びてくる。そもそも今回の怪文書に書かれている石原とオウムの〃関係〃は、本誌でも以前に触れたように、数年前から根強くささやかれてきた話であり、単なる「都市伝説」として片づけるにはリアリティがありすぎるのだ。
そしてもちろん、こうした噂が仮に事実だとすれば、石原が都知事選を前に躊躇した理由としても充分に説明がつくではないか。
だが結論からいえば、怪文書に書かれている話はそのほとんどが”ガセ”だった。
実は本誌も、もう一度この石原とオウムをめぐる噂を追跡、検証してみたのである。
まずは石原の四男のオウム信者説ーー。前出の怪文書では「ひろたか」となっているものの、この四男の名前は延啓といい、たしかに一応は画家で、宗教に強く興味を持ち、描く絵の中には密教的なものもあるという。しかしオウムとの接点らしきものがない。唯一根拠として語られていた「破防法の立証資料に四男の名前が記載されている」という事実もない。
そして林郁夫と裕次郎の関係についても確認できる材料はなく、加えて宗教法人認可の噂も、実はすでに2年前、今回の怪文書にも登場する法曹政治連盟の松浦良右が完全否定している。
さらに『中央公論』が詳細記事を掲載する、という記述についても、同社関係者は「いや、そんな予定はまったくありませんよ」と首をかしげ、試しにあの怪文書に記載されていた住所を訪ねてみても、そこには記載されていた「オウム徹底糾弾・オウムクーデター真相調査請求を求める会」なる団体の影も形も見当たらなかったのだ。
ようするに、しょせんは怪文書以外の何物でもなかったのだが、そんなさなか、とんでもない事実が発覚した。驚いたことに、一連の怪文書が自民党の謀略だったとの疑惑が浮上したのである。前出の政界関係者が語る。「怪文書攻撃に頭を抱えていた石原陣営が、怪文書に印字されていたファックス番号を調べてみたら、それが自民党都連の番号だったことが判明した。しかも石原側が都連を追及したら、都連側は怪文書をあちこちにバラまいたことを認めてしまったんだよ。作成者には創価学会説もあるが、それが誰かはともかく、怪文書をまかれた側の石原は当然カンカン。告訴をチラつかせて強硬に抗議中で、都連はもちろん平謝り。4月9日には、”自民党都運事務局長”名で石原の関係者に詫び状を出すという醜態ぶりだからね」
都知事選は圧勝、ついでに頭を悩ませていた一連のオウム疑惑もきれいに晴らし、そのうえ与党の都連に詫び状まで出させる……。
さすがは石原慎太郎、いや新都知事というべきか。たいした剛腕ぶりである。
しかし、実をいえば、石原がどうしても隠しておかなければならなかったこととは、このオウムをめぐる疑惑などではないのだ。
都知事選に出馬するにあたって、石原が絶対に触れられたくなかった事実……。
それはズバリ、愛人と隠し子なのである。
● 隠し子の存在がネック
さる4月23日、この日発売された写真週刊誌『フライデー』(5月7・14合併号)に、こんな記事がトップで掲載された。<石原慎太郎に「元愛人と隠し子」を問う>
いわく石原には元ホステスの「愛人」とその女性に生ませた「隠し子」がおり、それを隠して都知事選に出馬したのは、<都民に対する裏切りではないのか?>というのがその主な内容だ。なるほど、新都知事に倫理観を問うという意味では、たしかにいいタイミングの記事だったといえるのかもしれない。
ところがである。この問題は、本来ならいまごろになって記事になるはずではなかったのだ。もっと早い時期、そう都知事選の前には記事になっていたはずのものなのである。
それがなぜいまごろになったのか。実をいうと、石原サイドでは出馬表明前、この『フライデー』の動きをツブすべく、水面下で必死になって工作を行っていたのだ。そして事実、一度この記事はツブれたのである。
「ええ、石原の愛人と隠し子の記事にストップがかかったのは事実。ウチは石原の出馬が噂されていたころから記者とカメラマンを動かしていたんですが、出馬直前になぜか別の企画に変更されてしまった」(講談社関係者)
その「企画」というのが、3月26日号に掲載された次のような記事だった。
<「本命」石原慎太郎氏があの徳田虎雄と密会していた理由/深夜のホテルで出馬決意した〃瞬間〃をスクープ撮>。
石原とその選挙スポンサーと噂された徳田虎雄が出馬表明前夜にホテルで密会、そのシーンを撮影し、直撃インタビューしたというこの記事が、愛人と隠し子の取材ストップと同時に掲載されたというのである。別の講談社関係者がこう明かす。
「つまり、石原と『フライデー』はバーターしたんですよ。というのも、実はこの記事はヤラセなんです。『フライデー』の動きを察知した石原は、出馬前夜の自分と徳田の密会現場を『フライデー』に撮らせることを条件にバーターを画策し、この問題が表面化するのをなんとか押さえようとしたんです」
もともと都知事選出馬に意欲的だった石原慎太郎にとって、出馬の最大のネックとなっていたのは、オウムとの噂や書きかけの小説などではなく、なによりもこの愛人と隠し子の問題だったという。事実、出馬を準備し始めてからの石原は、この問題に対して異常なくらいナーバスになっていたというのだ。
一方、すでに3年前、この「愛人」を隠し撮りして記事にしていたのが『フライデー』だった。だから石原としては、出馬する以上、愛人と隠し子の存在を唯一詳細につかん
でいたこの雑誌の動きを、どうしても事前に押さえておく必要があったのである。
そしてこのバーターの裏で暗躍したのが、幻冬舎社長の見城徹だったという。というのも、見城は今回の都知事選で石原陣営のマスコミ対策を仕切っていたとも噂されたように、石原とはべッタリの関係だし、『フライデー』編集長の加藤晴之ともツーカーの仲。
「見城はもともと石原の出馬には反対だったんですが、石原に頼まれてイヤとは言えなかったんでしょう。それに彼はこれまでもさまざまな記事ツブシに暗躍してきた経緯があるからね。実際、見城は石原の言う通り、愛人と隠し子の問題を記事にしないという約束で代わりのネタを『フライデー』に提供したんです。それが例の石原と徳田虎雄の密会現場写真だった」(前出・講談社関係者)
この一件について当の見城に電話取材をしたところ、すごい剣幕で「そんなことはやってない」と怒鳴り、電話は一方的に切られてしまった。が、その見城、いや石原も、バーターしたはずの『フライデー』がまさか当選後にちゃっかり記事にするとは夢にも思わなかったのではないか。事実、石原サイドでは今回の記事にカンカンになっているという。
実は石原が愛人と隠し子問題でこれほどうろたえたのは、今回だけではないのだ。
新潟市内から車で1時間半ほど走ったあたりに広がる静かな穀倉地帯。この地域の小さな集落に、ごく普通の小さな民家がある。
この家で暮らしているのは、老齢の夫婦とその娘、そして高校生になる孫。だがこの娘と孫ーーつまり石原の愛人と隠し子であるこの母子は、ここでずっと暮らしていたわけではない。ある時期から、ここへ逃げるように戻ってきたのである。石原の関係者が言う。「その母親、仮にA子さんとしておくと、A子さんは銀座の高級クラブ元ホステスで、石原とは18年前に、当時彼女が勤めていたお店で出会い、愛人関係になったんだ。その後彼女は妊娠し石原の子供を生むんだが、しばらくは石原もA子さんと子供を都内の一等地に住まわせ、すべての面倒をみていたはず」
だが、A子さんが認知を求めたことで状況は一変する。石原の夫人に愛人と隠し子の存在がバレてしまい、怒った夫人と石原、A子さんの三者の間で、修羅場が繰り広げられるようになったというのだ。関係者が続ける。
「そうした中、最終的に石原は子供を認知するんだが、ただ、それは決して積極的なものではなかったと思う。というのも、石原は当時、陰では〃DNA鑑定すれば俺の子供じゃないと分かる〃と言っていたくらいで、どうも本気で自分の子供じゃないと思ってたフシがあった。それでも結局認知したのは、だんだん騒ぎが大きくなってA子さんと子供の存在が周囲に知られるようになったから。そんな時に認知裁判でも起こされば、マスコミの格好のネタになると思ったからだよ」
実際、石原はこの認知騒動後に、A子さんと子供を当時住まわせていた白金から実家の新潟へ、幽閉するかのように引っ越しをさせるのである。さんざん愛人関係を楽しんでおきながら、子供ができれば自分の子供じゃないと主張し、騒ぎが大きくなれば渋々認知して人目につかない地方に閉じ込める……。
そういう意味では、こんなエゴイスティックな人間もいないだろう。若くして芥川賞を受賞し、圧倒的な人気で国会議員に転身。そして、妻や亡き弟・裕次郎、さらに衆議院議員の長男・伸晃といった「理想の家」を家長として率いる自分。こういった選民意識まるだしの脆弱なプライドこそ、石原慎太郎という人間にとってもっとも重要なのである。事実、選挙に絡み愛人と隠し子問題をマスコミに書かれることをなにより恐れていた石原は、それまでさんざん迷っておきながら、『フライデー』とのバーターが成立した日、つまり徳田との密会現場を撮らせた3月9日の翌日に晴れやかな顔で出馬表明するのだ。出馬会見や選挙期間中、さんざん辟易させられた自信満々・傲慢そのもののあの物言いも、しょせんお笑い草でしかないのである。
● 石原慎太郎という男の人間性
ただ不可解なのは、なぜ石原慎太郎は今回そこまでして、必死に東京都知事になろうとしていたのか、である。
前述したように、石原はあの徳田虎雄を利用して『フライデー』とバーターしたのである。彼が医療法人徳洲会理事長というスポンサーと噂された大物と引き換えても手に入れたかったものとは、ほかでもない都知事のイスなのだ。だいたいそれほど権力の座にこだわるのなら、なぜ4年前任期途中にかかわらず議員を辞めたのか。
その理由については、石原自身も意味不明なセリフを繰り返しているが、いまから30年ほど前、あの”保守の帝王”江藤淳が指摘しているこの一文がもっとも分かりやすい。
<…ここから彼一流の自己劇化の衝動が生まれる。つまりかっこいい絶対者の地位に自
分を置いておかなければ安心できないという焦燥が生じるのである>(68年『婦人公論』)
身もフタもなくいってしまえば、ようするにこの石原慎太郎という男は、特権意識とプライドだけが肥大化した異常な目立ちたがり屋なのである。どうやら、自分という人間は<絶対者の地位>にいなければいけない、とでも思っているフシさえある。だが、石原慎太郎が”王様”でいられる場所など、もうどこにもなかったのだ。政治評論家がいう。
「4年前、石原さんが突然議員辞職した理由は簡単です。誰も彼のことを相手にしなくなったからです。石原は自社政権を作ったひとりだが、人望がないうえに経済オンチ、エラソーにするだけで、派閥を率いて子分にカネを配る力もない。89年の総裁選の時、立候補に必要な20人の推薦人を集めるのにも苦労したように、当時の自民党内での石原さんの存在理由なんて、選挙の時の人寄せパンダぐらいのもので、仮に石原さんが笛を吹いても、誰も踊らないような状況だった。彼にはそれがガマンならなかったんですよ。だから、せめて議員在職25年の演説という舞台をわざわざ選んでタンカを切り、辞職したんです。その意味では、非常に分かりやすい人ですよ」
議員辞職後、復権しようと働きかけた文壇でも同様だろう。満を持して出した復帰第一作『肉体の天使』は文壇から完全に無視され、故・裕次郎を描いた『弟』という私小説でも批評家からは相手にされず、喜んだのは裕次郎ファンの一般読者だけ。いまや石原を必要としているメディアなんて、少部数のタカ派論壇誌ぐらいのものなのである。
「『文藝春秋』が98年3月号で発表した<思い出に残る芥川賞作品>で、石原の『太陽の季節』が読者アンケートの断トツ1位になっていたが、そこに掲載されていた石原の文章が哀しいよね。すでに自分が<古い価値観>になっていることも気づかずに、いかに当時自分が<古い価値観>と闘ったかをさも自慢気に書いているんだから」(文芸評論家)
そういう意味では、石原慎太郎にとって自分が<絶対者の地位>でいられる場所は、もはや東京都知事しかなかったのである。
それも東京都知事選といえば、これまで選挙という選挙で必ずぶっちぎりのトップ当選を果たしてきた石原にとって、唯一無二の敗北を経験した選挙だった。その特権意識を充足させるためにも、石原はなんとしても都知事選に出馬し、勝つ必要があったのだ。
しかもである。石原は一見、周辺の人間に外堀を埋められたため仕方なく出馬したというポーズを装っているものの、実は密かに準備していたフシもある。というのも、石原は都知事選が話題に上りはじめた昨年12月、幻冬舎から『法華経を生きる』という単行本を出版しており、この本がどう読んでも、自分の”支持者たち”に媚びるために書いたとしか思えないような内容なのである。
「タイトルからも分かる通り、ひと言でいえば、五木寛之『大河の一滴』の二番煎じのような内容なんですが、違うのは五木は真宗大谷派に、そして石原は、日蓮宗系の在家団体、つまり霊友会や立正佼成会といった宗教団体に向けて書いていることでしょう。実際この本のなかでは、立正佼成会の開祖、庭野日敬の著作が頻繁に引用されていたり、霊友会のシャーマン・小谷喜美を褒め讃え、選選挙の時に霊友会から20万票回してもらった話などが随所に登場するんです」(前出・文芸評論家)
事実、石原にとって霊友会や立正佼成会は、これまで最大のスポンサーであり最強の集票マシーンだった。そして実をいえば、それは今回の都知事選でも同様だったのである。別の石原の関係者が明かす。
「怪文書には徳田や松浦云々と書いてあったが、実際の選挙資金は、おそらく立正佼成会がかなりの部分を負担したはずです。もちろん票集めもね。霊友会は数年前の久保継成会長の女性スキャンダルで組織が分裂状態のため、今回はそれほどでもないが、元をたどれば立正佼成会も霊友会から派生した団体。つまり『法華経を生きる』は、都知事選に出たらお願いします、という石原から信者に向けたメッセージだったのかもしれないな」
2年前、本誌は石原を「醜悪」と批判したが、こうなるとむしろ「哀れ」とも思える。
いや一番哀れなのは、こんな人物を都知事に迎えてしまった東京都民、かもしれない。
<敬称略>