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http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/archive/news/2007/04/18/20070418dde014040038000c.html から転載。
遺跡の現在形:下宅部遺跡(東京都) 漆が示す縄文の生活レベル
世界最古の漆製品は日本にある。約9000年前(縄文時代早期)、北海道函館市・垣ノ島B遺跡の出土品だ(火災で焼失)。中国最古のものより2000年古い。かつて漆技術は大陸から移入されたと考えられてきたが、今は日本列島と大陸で別個に生まれてそれぞれ発展したとの見方が有力だ。精製法が日本の方が繊細な点など、大陸とは技法も異なっている。
しかも、約9000年前の遺物が最古のものでもないらしい。垣ノ島B遺跡の漆製品には数度の重ね塗りなどの高度な技法が使われ、そこに達するまでの相当の年月の経過が推定できるからだ。
それにしても不思議なのは、ウルシの木が自然状態では育ちにくいことだ。日当たりがよく水はけのよいところに植えて漆を採取するのが生態に即した技法である。さて、縄文の昔には……?
この疑問に答える発見が最近、下宅部(しもやけべ)遺跡(東京都東村山市)であった。時代は少し下り、縄文後期〜晩期(4000〜2700年前)の遺跡である。
川沿いから多数の木のくいが見つかり、うち約70本がウルシと特定された。しかも、幹をぐるりとひと回りする傷があった。「殺し掻(か)き」と呼ばれ、多量の漆が採取できる技法の痕跡だ。しかし、周の一部を掻くのとは違い、傷が一周すると下からの養分の供給が絶たれ、木は死んでしまう。永嶋正春・国立歴史民俗博物館准教授は、これらのウルシの樹齢が10年前後にそろっているのに着目した。
「ほぼ10年単位のウルシの長期管理があったのでしょう。漆が採取できるのは夏場だけなので、一定期間に大量に採るためには殺し掻きは当然の選択です。しかし、木がなくなっては翌年以降の作業ができない。10年前後の木を選んで採取し、切り倒してくいに転用し、再び根元から若木を育てる。こうした自然に対する能動的な生活ぶりがうかがえます」
発掘担当者の千葉敏朗・東村山ふるさと歴史館学芸員もほぼ同様の考えだ。縄文人に10年という意識があったかどうかはともかく、漆製品の出土量から、必要な漆を確保するためには先を見越した管理があったのは間違いないとみる。製品1個あたりの漆使用量などのデータが蓄積できれば、管理の対象となったウルシの本数も試算してみたいという。
問題はここからである。漆は堅牢(けんろう)無比だ。紫外線以外、どんな薬剤にも劣化しない。塗料や接着剤として抜群の素材だ。とはいえ、縄文人にとってはあくまでも補助的な役割の品物。もっと大切な物があった。言うまでもなく食料だ。そこで研究者は考える。
「縄文人は漆以上に、食べものに意識を向けたに違いない」。縄文時代の食用植物の栽培・管理の実態に関しては長年の論争があるが、「ウルシの木の管理をひとつの水準として、それ以上のものを考える必要がある」というのが永嶋さんの主張だ。下宅部遺跡からも、野生とは考えにくいほど粒の大きなクリが出土している。
このほか、塗られた漆の痕跡からは刷毛(はけ)や筆などの工具の存在も推定される。文字の時代よりずっと古い筆だ。さらに、漆は採取後短時間で空気中の水分と反応して固まるため、採取してすぐ塗れるようにあらかじめ木地を準備しておく必要がある。こうした作業がスムーズに行える機能的な空間が想定されるという。漆の存在は相当な生活レベルを示すのだ。
漆は海外で「ジャパン」と呼ばれ、日本の誇る伝統工芸品になっている。しかし、縄文時代に精彩を放った漆は、次の弥生時代には急に細々としたものになってしまう。飛鳥時代には復活するが、大陸伝来の技法に替わっていたらしい。弥生の低迷が謎である。漆の秘密は、大げさでなく日本史の秘密なのだ。【伊藤和史】=毎月1回掲載します
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◇下宅部遺跡
狭山丘陵に沿った谷に位置する。96年、都営住宅の建て替えに伴う調査が始まり、現在は終了。核心部は保存され、「下宅部遺跡はっけんのもり」として整備されている。
低湿地遺跡のため木製品や動物の骨などがよく残る。解体されたシカやイノシシの骨、アク抜き中のトチの実の残骸(ざんがい)、製作途中とみられる巨大な丸木舟なども見つかり、縄文時代の川原の作業場の可能性が高い。後〜晩期の土器が途切れなく出土し、土器編年上も注目される。奈良・平安の遺構・遺物も出土。
毎日新聞 2007年4月18日 東京夕刊