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「中田市長は先頭に立って戦え」「我々のリーダーは中田」
演壇にむしろ旗が掲げられ、北海道夕張市の会場を400人以上が埋め尽くした。市長選を2カ月後に控えた99年2月。引退の意向だった中田鉄治市長(当時)に6選立候補を促す「夕張市民勝手連合」の集会だった。
勝手連のメンバー吉岡民夫さん(79)が聴衆に訴えた。「市長が代われば2年以内に財政再建団体になる。中田さんでなければ市民生活は守れない」。熱気に押されるように中田市長は立候補を表明。最後の任期を務めることになった。
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今日の財政破綻につながる巨額赤字は、79年から03年まで6期24年務めた中田前市長時代に作られた。夕張は相次ぐ炭鉱閉山で人口流出が続いていた。それを食い止めるため推進したのが「石炭の歴史村」やホテル、映画祭開催などへの積極的な観光投資だった。
市助役出身の中田市長は、産炭地域振興審議会など国の諮問機関委員を務め、映画祭では夕張の名を国際的に広めた。事業への補助金や起債許可を次々取りつける政治力に、地元は期待した。
「国も炭鉱会社も労働者と家族を見捨てた。みんな家でしょんぼりしていたところに活気が出たんだ」。中田市長と同じ79年、北海道炭礦汽船労組の女性組織から推されて市議になった秋元嘉代さん(80)は言う。
新たな雇用先を求めた炭労、中田市長がかつて委員長を務めた市職労、公共事業頼りの建設業協会、商工会議所、地元自治会。主立った組織が後援会に名を連ねた。
支持した夕張の人たちには、共通の思いがあった。「夕張の問題は国のエネルギー政策転換が原因。最後は国が何とかしてくれるはずだ」
やがて景気の悪化とともに、観光事業は低迷してゆく。国は補助や起債を渋り始めた。それでも「国や道に顔がきくのは中田さんだけ。借金が膨らんでいるのが分かっていても、任せ続けるしかなかった」と、三菱大夕張炭鉱の労組役員をした松原等さん(73)。
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「中田頼み」の市政を有権者はどこかで変えられなかったのだろうか。
中田市長は3回の無投票当選を重ねた。4期目の91年選挙で初めて、自動車整備工場を経営していた藤田正春さん(71)が挑戦した。
「中田さんは大きな事業をするときも、市民説明会などほとんど開かなかった。ガラス張りの行政でなければと思った」と藤田さん。中田8365票に対し5853票を集め、周囲を驚かせた。
95年選挙には、市議から樋浦善弘さん(65)が立候補した。ワンマン市政を批判し、投資が身の丈に合っていない、借金が多すぎるとも訴えた。結果は、中田7782票対5076票だった。
「市民意識が変わらなかった。ここでは炭鉱がなくなった後、行政が一番支配力がある。お上意識というか、長いものに巻かれろだった」。敗れた樋浦さんはそうみる。
中田市長が翻意して立った99年にも、市議の小林吉宏さん(62)が打って出た。支持者の前で市長選に出ると宣言したとき、1割近い人が即座に事務所から出て行った。狭い町には幾重ものしがらみがある。中田6594票対5007票。
中田市長を退場させたのは結局、有権者の選択ではなく、健康問題だった。03年の選挙は4人が立った末に、助役だった後藤健二さん(65)が当選。その後藤市長が昨年6月、財政破綻を宣言する。中田さんは引退の年に77歳で死去していた
http://www2.asahi.com/senkyo2007t/news/aTKY200703050221.html