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三木2001 [論文時評]
三木 ひかる2001「アイヌ民族蔑視の根底を問う」『アイヌ ネノ チャランケ』つぶて書房:116-172.
「「蝦夷痘黴史考」は、日本帝国主義の中国侵略戦争の全面化にともなって国策研究のために設立された「日本学術振興会」(1932年)の第8小委員会(委員長・永井潜=東大生理学教室)における研究、すなわち「アイヌの医学的民族生物学的研究」の一環であった。著者・高橋信吉(北大医学部、1936年から長崎医大)は第8小委員会の委員であり、アイヌ民族「滅亡」の最大原因の一つが梅毒にあるなどという差別的な予断と偏見にもとづいて、1934年から37年にかけて、北海道の広範な地域と樺太(サハリン)でアイヌおよび先住民族の「皮膚病及ビ性病」調査を行った。この時期の第8小委員会の調査は児玉作左衛門らの大量の人骨、副葬品の発掘収集、略奪などをふくめて、アイヌ民族蔑視、人権蹂躙の極致ともいうべきものであった。」(118)
「「1899年に制定された『北海道旧土人保護法』は、その『保護』の名に反し、この地の在来民にとって身動きならぬ駄目押し的枷(カセ)となった。同法により、在来民はすでに組み込まれてしまっていた階級社会の中で、職業や居住地などを制限され、さらにはそのような社会的差別を一集団として蒙ることになった。しかも、それらに伴って当てがわれた『給与地』はといえば、大半がその後約半世紀の間に『和人』の手中に転ぜられてしまった。」
このような客観主義的立場から築かれる「アイヌ史」とは「アイヌ衰亡史」以外ではありえない。アイヌ民族は「階級社会」つまり日本資本主義社会にすでに「組み込まれ」、天皇制国家に「同化」(「皇民化」)してしまった「在来民」であり、そのような存在として「保護」するはずであった「北海道旧土人保護法」が「職業や居住地などを制限」したために、同じ「日本人」でありながら「社会的差別」を受けることになった、というのである。「在来民」などといういい方が示すように河野本道はアイヌ民族を独自の民族とは絶対に認めず、その民族自決権を否定する。河野本道のアイヌ民族差別の一切はここから発している。」(125)
「河野本道は、アイヌ民族は「形質的にも、社会的にも、文化的にも」和人と“同化”してしまっておりもはや区別がつかなくなっている、歴史的にみても一民族集団を形成したことがなかったなどの主観的独善的主張にもとづいて、アイヌを民族とはみなしえないといい張っている。
民族の区別(アイヌ民族と和人の区別)に人種概念をもちこんでいるなどの重大問題があるが、形而上学的に設定した「形質的」「社会的」「文化的」特徴を固定的基準にして、民族を区別あるいは判別している点がまずもって問題である。河野本道は裁判の「陳述書」でも「『民族』という用語は、研究者間でも概念規定の難しい用語」「『民族』の概念は客観的に規定されるべきであり」などといっているが、このような「民族の概念規定」つまり機械的図式的画一的定義にもとづいて民族を判別、理解しようとすること自体が不毛(観念論)である。
いかなる民族も歴史的に多くの段階をへて、さまざまな交流をつみ重ねて形成されてきた。諸民族は具体的世界のなかでいきいきと生成し、運動している。民族はその諸関係が生成し、変化し、発展する歴史的社会的範疇(分類)としてとらえなければならず、戦争や平和的交流をつうじて相互に浸透し合い活動する民族と人類史の各時代を、民族とはかくかくしかじかである、などという超歴史的固定的定義にもとづいてとらえることはできない。「民族」の範疇(分類)そのものが、国際的諸関係の歴史的発展あるいは社会的分業と階級的分化の産物である。」(127)
「重要なことは、民族概念の発生、今日の民族問題の出発点は、資本主義的発展において先行した民族が先住諸民族の独自の民族性と民族自決権を無視、蹂躙してこれら大民族だけが民族自決をとげ、自民族中心の排外的民族主義にもとづく近代国家を形成したことに発しているということである。・・・
日本においては近代天皇制国家がアイヌ民族の民族自決権を否定してアイヌ・モシリを略奪、国内植民地(「北海道」)化し、その資本主義的開発をおしすすめてアイヌ民族から大地や資源をふくむ生産手段を奪い、同化抹殺(民族絶滅)政策を推進した。帝政ロシアとの間では、アイヌ民族にとって不可分一体のアイヌ・モシリであった東シベリア、サハリン(樺太)、クリル(千島)、北海道に国境線をひいて「領土」分割競争をくりひろげ、アイヌ民族を分断してその統一的文化圏を破壊した。今日、アイヌ民族が民族的独自性の主張と民族自決権要求を高めているその原点はここにあることをはっきりととらえなければならない。
朝鮮、中国、アジア・太平洋諸国の侵略植民地化に至る日本の帝国主義支配の原型がアイヌ民族支配にあるとはいわれてきたが、そのアイヌ・モシリ併合支配、国内植民地化にたいする反省は学会においてもいまだに弱い。それは琉球併合支配についても同じである。アイヌ・モシリ併合支配を起点とし、アイヌ民族同化抹殺政策を土台として、他民族にたいする日本の帝国主義支配の形とその理論がつくりだされてきたことについての、つまり日本帝国主義と民族植民地問題の原点についての鮮明な認識をもたなければならない。」(128)
これまた、贅言を要さない。
「北海道考古学」あるいは「北方文化研究」、「アイヌ考古学」あるいは「民族考古学」「民俗考古学」はたまた「土俗考古学」などと呼称されてきた諸研究においては、こうした認識、それも「鮮明な認識」が基盤をなさなければならない。
最後に一言。
先ごろ制定された「日本考古学協会倫理綱領」に、こうした認識を見出すことが困難である。それは17年前に出された旧「日本民族学会」の「アイヌ研究に関する日本民族学会研究倫理委員会の見解」(『民族学研究』第54巻第1号)、あるいは「バーミリオン協定」と比較して、まことに情けないものである。そうしたレベルを「親睦団体」に要求すること自体が無理な注文なのか。それにしてもこのような「倫理綱領」が出されてしまったことに対する責任の一端を痛感する。
2006-09-25 20:00 nice!(0) コメント(0) トラックバック
http://blog.so-net.ne.jp/2nd-archaeology/2005-09-25