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どうでも良いが「核武装の論議はしても良い」との発言をしただけで「罷免要求」をする方も方だが、それを受けて「訂正」する方も方である。
http://www.sankei.co.jp/news/061016/sei004.htm
これは一種の言論弾圧であって「核武装」と云うことのは特殊なことであっても、現実として「核武装している国があるのだから、どうしたら良いのか?を考えるのは当然だろう」とKは思う。
その上で「日本が核の攻撃で滅んでも、こちらの所有はすべきではない」というのが結論として確認されるのなら、これはこれでかまわないだろうが、「議論自体が悪」というのはアホの考え方であり、言論弾圧であり、今後は例えば「天皇廃止論を議論しよう」と言っただけで「弾圧される(弾圧が許される)」事になるのが理解できないのだろうか?
そもそも、今は「憲法改正問題」や「共謀罪」という微妙な問題がある時である。
多分だが、キチンと現実を考えている人の中には相当数の人が「核武装も考えるべき時」と考えているはずであるが、「それを考える事が悪」との意見表明によって「その人達とは大同団結などできなくなる」だろう。自らがバリヤーを張ってしまうと云うことである。
非核3原則は「核の脅威が日本に及ばない」と確信できる場合は妥当とも思えるが、その前提が崩れたのなら「単なる理想論」なのだろうと思う。
世界の核軍縮の方向は正しいだろうが、日本一国が核の放棄をすることは「必ずしも正しい」とは言い切れない。
自衛隊がなくても「日本を占領などすれば国際世論の非難を浴び、経済制裁がある」だろう。それが抑止力となる。
しかし、核を所有する国への抑止力は「核攻撃したら、自分もされる」という抑止力でなければ「抑止力にはならない」のだろうと思う。
多分であるが、北朝鮮が日本を核攻撃しようと思えば、将軍さまの決断一つである。軍隊によって日本を占領しようとすれば、「日本に到着するまでに国際世論によって気が変わる」と云う可能性もあるが、核ミサイルではそうはいかない。
「どんなに狂った指導者にも分かるようなリスク(ここでは抑止力)」がなければ、危険だと言うことである。
日本は世界で唯一の被爆国であり、核に対する嫌悪感が強いのは理解できるが、その辺は「個人の主観」の問題でもある。
「日本人くらいは滅ぼされても核を持つべきではないと決心をするくらいでないと世界から核はなくならない」とKも思うが、崇高な理念を抱きかかえて滅んでは「終わり」とも思う。