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投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 08:14:36: Gsx84HOp6wiqQ
 

(回答先: 天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)のb事 投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:20:37)

 
 
 
 
成甲書房刊 太田龍氏著「天皇破壞史」
二〇〇二年(平成十四年)六月五日初版第一刷發行 
 
第三章 日本史に於る最大のタブー、孝明天皇史弑逆

百十五頁
【西暦二〇一二年、皇統滅亡と云ふ無氣味な豫言】

 「由緒記」によれぱ、昭和三十九年七月、三代宮司就任後に復興の道を歩むとある。明治
三十四年、初代旭形龜太郎宮司死去から六十三年が經過してゐる。と云ふことは、此の間二
代宮司、そして其の沒後は、未亡人がb社をお守りしてきたのだらう。私は此の間の事情を
詳しく調べるに至つてゐないが、三代は養子として旭形家に入り、宮司職を繼承されたもの
のやうである。
 ところで、此處に略述された玉鉾b社の歴史と、前掲の佐藤紋次郎の口傳、とくに其の後
半部分の關係はどうなるのか。
 「口傳」によれば、佐藤紋次郎は大本教に入信してゐた模樣だが、入信の年は分からない。
此の人物が傳へてゐる孝明天皇の遺敕の御宸筆の内容、および旭形龜太郎の遺言遺書には、
其のまま受け入れる事の出來ない箇所が多く含まれてゐる。なかでも、「皇紀二千六百年ト
ナレバ米國ガ我ガb國ノ國旗日ノ丸卜三種ノb寶ヲ奪フ仕組ヲシテ居ル……」とあるが、此
れはをかしい。
 幕末明治以前に「米國」と云ふ用語は使はない。「國旗日ノ丸」とも云はない。また、米
國が攻めてくると云ふが、當時は日本を脅かす西洋の大國は、英國と露西亞であり、其のや
うに日本人は認識してゐた。日米戰の可能性が云々(うんぬん)されるやうに成つたのは、大
正後半から昭和前期に成つてからである。
 「口傳」には、別に「旭形龜太郎小傳」と云ふ著作があるやうに描かれてゐるが、此れは
あいにく入手し得てゐない。
 旭形龜太郎は死の直前に「此の玉鉾b社は子孫に傳へる譯には參らぬ。町内に寄贈する」
と佐藤紋次郎に言ひ遺したと云ふ。此れは辻棲(つじつま)が合ふのか。佐藤紋次郎と云ふ人
が、デタラメや嘘僞りを竝べてゐるとも思へないが、結果的には大本教と出口王仁三郎一味
にまことに都合のよい結論が導き出されるやうに成つてゐる。
 假に旭形龜太郎、佐藤紋次郎の傳へる孝明天皇の「御宸筆」が僞造でなく眞實であつたと
しても、「タンバ  アヤベ  出ロナクセバ日本ハホロブ、出口王仁三郎が日本の救世主で
ある」などと云ふ文言は、大本教の宣傳文句以外の何ものでもあり得ない。萬が一、孝明天
皇のお言葉でも私は否定する。まして、此の兩人の傳が眞實と云ふ保證は何もない。
 然し、旭形龜太郎が文久三年(一八六三年)一月、敕令によつて孝明天皇の警備隊長と成り、
元治元年(一八六四年)七月の蛤御門の變では、玉坐の守備にあたつて其の大任を果たしたと
『由緒記』にも明記されてゐる。
 「そして此の龜太郎の至誠を孝明天皇は度いさうお喜びに成られ、天杯、守護符、其の他
數品と『御璽』を賜はり、紫宸殿に於て『b國の祕法』を傳授され、『御宸筆等の經綸書』
『御旗』を託し賜つたのであります」とある。
 更に『口傳』では、「孝明天皇は龜太郎に『赤地白菊章』の御旗を授け、『今ヨリニ十八
年ノ辰年二みろく大bガ出現遊バス コノ御方ガ出現ニナレバ我皇國ハ萬々歳ナレドモソレ
迄ハ大變ナコトガ頻出スルカラ コノ御旗ヲみろく大b出現ノ時機マデ預ケ置ク 大b出現ノ
年トナラバ 日ヲ撰(えら)ンデ奉還セヨ』と仰せられた」と云ふことに成つてゐる。
 此の御旗は、明治二十五年(一八九二年)八月十七日に無事奉還され、明治天皇から御手許
金壹百圓を賜り宮内省より下附された。御旗は天皇旗であり、明治天皇即位式の時、天皇旗
がなくて困り、京都の西陣で帶地を使ひ、此れをこしらへた事が判明したと云ふ。なほ、元
治元年(一八六四年)から二十八年後の辰年とは、明治二十五年にあたる。
 大本教の宣傳臭味を取り除けば、佐藤紋次郎口傳の大筋は、慥かに本物である。さうでな
ければ、『由緒記』の明治三十三年、皇族方の參拜、昭和三十九年に再建復興が始まるや、
昭和四十年十一月に御祭b孝明天皇の曾孫にあたられる東久邇宮盛厚殿下正式參拜などはあ
り得ない。
 其れにしても、此の玉鉾b社は世に知られてゐない。私も、平成十年十二月十日、大本教
系文書『佐藤紋次郎口傳』によつて、初めて其の存在を知つた。其の時點でも大本教關係者
さへ、其の後「玉鉾b社」はどうなつたか現存してゐるのか關知せず、關心さへ持つてゐな
い。b社、b道關係の人々にも、私の周りには其の名を知る者は皆無であつた。
 友人が現地に行つて調査したのが、平成十一年三月十日。其處でようやく私は玉鉾b社が、
危うく廢亡しさうに成り乍ら、旭形家累代(るいだい)のご奉仕と、地元崇敬者によつて支へ
られ、昭和三十九年、復興の歩みを續けてゐるとの貴重な情報に接したのである。詰り、熱
田b宮と伊勢b宮の丁度眞ん中地點に「朕ヲ齋(いつ)キ祀レヨ朕ハ武豐ノ地二鎭坐シテ皇國
ヲ守護セシム」との孝明天皇の御遺敕、御敕願は、慥かに實現されてゐる。
 伊藤博文を首とする孝明天皇弑逆、および其の精b的政治的經濟的遺産相續者の一味にと
つては、此の成り行きは脅威であり、不氣味であり、不安だらう。
 私は、拙著『ユダヤの日本占領計劃』一二一頁以下に、白川b祇伯家學頭、高濱清七郎に
關する次のやうな事蹟を論述しておいた。
 
 
   傳へられるところによれば、元治元年、蛤御門の變で、禁裏(きんり)の奧深く砲彈
  が飛び、寶詐繼承祕傳口傳の道が絶える事を憂慮された孝明天皇ば、密かに此の祕儀
  をつかさどるb祇伯(じんぎはく)家學頭高濱清七郎(たかはませいしちろう)を召され、
  敕命書と印綬(いんじゆ)を授け、暫く身を隱し、萬一の事態に備へるやうに命じられ
  たとされた。
   高濱清七郎ば、郷里岡山に身を潛めるや間もなく孝明天皇は弑逆され、睦仁(むつひ
  と)王は、伯家の祕儀を傳授されぬまま即位、そして清七郎は最早、岩倉と長州の手の
  者に妨碍されて、明治天皇に近づくことが出來ず、其のまま今に及んでゐるとの「説」も
  殘されてゐる。
   第六十五代花山(かざん)天皇第三皇子清仁(すみひと)親王の一子、延信王(のぶざね
  おう)が臣籍に降下し、「源」姓を名乘つて初代の「b祇伯王」の位に就いた。京都北
  白川に屋敷があつた事から、白川家とも呼ばれる。
   延信王のb祇伯就任以來、立太子された皇太子を三年の間b祇伯家の學頭が預かり、
  天津日嗣(あまつひつぎ)の祕儀を傳へたとされる。
  前記の通り、此の門外不出の祕儀の傳承は、孝明天皇の代で斷ち切られた。
 
 
 蛤御門の變前後、孝明天皇はb國皇國日本の前途を深刻に憂慮され、外國列強の強壓によつ
て崩潰する不吉な豫感を抱かれたやうだ。其の時、孝明天皇は今に傳へられてゐる限り、二人
の忠臣に大切な後事を託された。一人は、勤王力士隊隊長だつた旭形龜太郎である。其の要旨
は既に述べた。あとの一人は高濱清七郎である。
 歴代皇太子は、立太子後三年、b祇伯家學頭によつてb事を學ぶ。ところが、明治天皇は、
其の祕事傳授がないうちに即位された。高濱清七郎が、明治新政府以降、天皇に近づかうとし
たが、宮中を固めた長州閥によつて阻止された。其の後、此のb祇伯家學頭高濱清七郎の系統
は斷絶してしまつたと云ふ。
 白川b祇伯家の祕事b事傳授なき天皇が百年續くやうなことがあれば、皇統は減亡する、と
の言ひ傳へもあると云ふ。孝明天皇崩御の時から計算すれば、昭和四十一年で既に百年は經過
してしまつてゐる。明治天皇崩御を起點にすれば、西暦二〇一二年、平成の年號でば二十四
年、詰りあと十年で皇統は減びる事に成る。
 
 
 
 
 
 
 

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