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(回答先: 天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)のb事 投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:20:37)
荒地出版社刊太田龍氏著「ユダヤの日本占領計劃」
一九九四年(平成六年)四月十日第一刷發行
百二十四頁
第六章 孝明天皇の攘夷の詔敕の御精bが今よみがへる
(1)孝明天皇弑逆(しいぎやく)事件で、b國日本の皇統は斷絶し、
天津日嗣(あまつひつぎ)は岩戸に御退隱されたと
あれば、明治、大正、昭和、平成の四代の皇室は一體、なにものか。
ペリー艦隊が來航した一八五三、四年と云ふ年代を、ユダヤ惡魔教世界帝國の行動日程表、
とりわけ、「彼ら」の日本侵攻プログラムの中に位置附けてとらえ直し、其の全貌を認識し得
る地點に、今、日本民族は到達した。
此處に於て、初めて、日本民族は、ユダヤ惡魔教世界帝國の前に立ちふさがり、國難に殉じ
られた人皇第百二十一代孝明天皇の御聰明ぶりと偉大さを十分理解し、顯彰する事の出來る立
場に立つたのである。
孝明天皇は、日本の全國民が一致團結して攘夷に蹶起するやう、詔敕(みことのり)を發せら
れ、又、b々に宣命(せんみよう)をささげられた。
ところが、幕府も、尊皇攘夷を口先でもてあそぶだけの薩長兩藩も、いづれもユダヤ歐米の
手の内に丸め込められ、ユダヤ歐米に國を賣る國賊の徒に化してしまつてゐた。
幕府はユダヤ=佛蘭西の掌中に歸し、薩摩は事實上の「薩英同盟」で、ユダヤ=英吉利の日
本侵掠の手先と成る始末である。
そして、長州も、薩摩の手引きで、ユダヤ=英吉利の惡の手におびき寄せられてゐた。
ユダヤの惡魔の手は、京都の公卿に伸び、公卿の中の下級にして野心滿々、マキアベリスト
的權力鬪爭の權化の如き岩倉具視(ともみ)がユダヤの毒エサにパクリと喰ひ附いてゐた。
詰り、慶応元年(一八六五)、同二年(一八六六)の日本の政局は、殆ど孝明天皇御一人と、天
皇側近の公卿衆の大多數が、攘夷の旗を死守なされ、幕府方と倒幕派大名方のいづれも、ユダ
ヤ歐米に魂を賣り渡し、安政條約をテコにして、時々刻々、ユダヤ惡魔教の毒が日本列島に奔
流のやうに流れ込んで來る、と言つた情況に成つてゐたのだ。
あくまでも攘夷の御意見を曲げられず、b戸開港の敕許をお與へに成らない孝明天皇の御態
度に業を煮やした英佛は、聯合艦隊を瀬戸内海に入れ、陸軍をb戸に上陸させ、兵を京都に進
め、孝明天皇に面會を強要するぞ、と幕府を脅迫した。勿論此れは、裏では薩長兩藩首腦部(
表向き、尊皇、勤皇を云々する、此の度し難き欺瞞的國賊ども)と示しあはせてのことであら
う。
岩倉らによる孝明天皇弑逆は、裏に、此のやうな急迫した情勢下で決行されたのである。
かくの如き日本の政局の推移を、長嵜に居を構へるフリーメーソン駐日代表グラバーが、裏
で總指揮を取つてゐたのである。
孝明天皇弑逆は、單なる日本の國内政治力學から生まれたものではなくて、究極的には、ユ
ダヤ・フリーメーソンのb國日本の國體抹殺を狙つた、必殺の一手、と見なければならない。
實に、我が民族にとつての、此の重大事に、はつきりと日本民族が氣附いたのは、平成四年
(一九九二)のことなのだ。
狙ひすました此の一撃は、單に日本の政局を根本から變革せしめたにとどまらず、b國日本
の國體の根幹にかかはる深傷(ふかで)を與へた。
幕末、維新指導部の中で、此の異變に氣附き、孝明天皇の攘夷の御意見に忠實であらうとし
た眞の愛國の志士は、長州藩の前原一誠、肥前の江藤新平、薩摩の西郷隆盛以下、悉くユダヤ
惡魔教の手先と成つた岩倉、大久保、木戸の僞政權によつて斬られ、又、戰死、自決し、又、
投獄された(明治b道界の巨人丸山作樂のやうに)。
若しも、吉田松陰が生きてをれば、松陰の弟子、桂、伊藤博文らは躊躇する事なく、奸賊大
久保 - 岩倉らと共謀して、師の松陰を斬つたであらう。
そして、若し、幼帝明治天皇が岩倉、大久保らの尊歐攘日(ユダヤ歐米を尊び、目本的なる
ものを討ちはらう)路線に反對なされ、先帝孝明天皇の御意志に副ひ西郷隆盛を支持されたと
假定すれば、岩倉らは、疑ひもなく、明治天皇をも弑逆し奉る事をも企圖したであらう。
彼らは、既に其れほど深く、ユダヤ歐米の手の内にあつたのである。
傳へられるところによれば、元冶元年、姶御門の變で、禁裏の奧深く砲彈が飛び、寶詐(ほう
そ)繼承祕儀口傳の道が絶える事を憂慮された孝明天皇は、ひそかに、此の祕儀をつかさどるb
祗伯家學頭高濱(たかはま)清七郎を召され、敕命書と印綬を預け、暫く身を隱し、萬一の事態
に傭えるやうに命じられた、と言ふ。
高濱清七郎は郷里岡山に身を潛めるや、間もなく孝明天皇は弑逆され、睦仁王は、伯家の祕
儀を傳授されぬまま即位、そして清七郎は最早、岩倉と長州の手の者に妨碍されて、明冶天皇
に近附くことが出來ず、其のまま今日に及んでゐる、との「説」も殘されてゐる。
筆者は、此の「説」を確認する立場にないが、いづれにしても、孝明天皇弑逆(慶応二年、一
八六六)の時點で、日本の國體と天津日嗣(あまつひつぎ)繼承に、明確な斷絶がある(ユダヤ惡
魔教の手先によつて斷ち切られた)ことは、幾多の間接證據と、其の後の政局の展開によつ
て、疑ふ餘地はない。
さうであれば、一體、明治、大正、昭和、平成の四代の皇室は何者か。
一説によれば、b國日本の眞の道統を繼ぐ御方がひそかに皇統を守つて居られるとも言はれ
る。
まことに日本民族は容易ならぬ状態で、此の四代を生き續けてゐるのだが、果して、天津日
嗣は、何時の日か、天の岩戸からお出ましに成るのか。