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投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:40:11: Gsx84HOp6wiqQ
 

(回答先: 天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)のb事 投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:20:37)

『鎭魂行法論』津城寛文 松岡正剛の千夜千册・遊蕩篇 
 
 
禊と祓。鎭魂と歸b。此れは單なるオカルトぢやない。

 依靈。水滌嚴法。術魂。御手代。眞澄息吹。
 よりひ、みそぎいづのり、ばけたま、みてしろ、ますみのいぶき、と讀む。如何にも靈妙さ
うで、なんとも奇つ怪な響きをもつ。めつたに聞かない言葉であらうが、ある界隈ではさかん
に使はれてゐる。
 かう云ふ言葉に出會ふには、b社b道の一寸した脇道を覗く必要がある。たとへば、今日の
b社b道、およびb道系の多くの集團が採用してゐる祓(はらい)や禊(みそぎ)の行は、お
そらくは明治末期から昭和初期にかけて活躍した川面凡兒の鎭魂行法説と云ふものに淵源があ
る筈なのだが、其の淵源から先を見ていくと、かうした言葉が頻繁に飛び交つてゐた事がわか
る。
 b社b道の祓や禊なんて、其の淵源はもつと古來からのものだらうと思ふだらうが、むろん
其のルーツは古いのだが、今日の祓の儀や禊の儀の行法と成ると、いまのべた川面凡兒あたり
の近代行法に淵源が求められるのである。すなはち、そんなところに淵源があると云ふのは、
脇道が此れを進むうちに本道に合流してゐると云ふことなのだ。b道の禊行など、てつきり古
來から同じ行爲が續いてゐたものと思ふだらうが、必ずしもさうではなかつたのである。

 では、そんなことを仕出かした川面凡兒とは何者か。「かわつら・ぼんじ」と讀む。おそら
く此の名前を知る者も少ないだらう。然し其の川面凡兒の靈魂觀や祭b觀は、あとでも説明す
るが、一方で大祓戸bと天御中主太bの二bによるb理を組み立て、他方で「祓・禊・振玉・
雄健・雄詰・伊吹」と云つた6段階の鎭魂のプロセスをあきらかにして、近代日本の「禊」や
「祓」のしくみをほぼ“合理的”につくりあげたのである。
 ともかくも、さう云ふ人物がゐた。さう思はれたい。けれども、いまはすつかり忘れられて
ゐる。忘れられてゐるだけでなく、われわれの日々をとりまくb社での日々とも切斷されてゐ
る。いや、忘れられ切斷されてゐるのは川面だけではない。本田親徳(ちかあつ)の靈學や長
澤雄楯(かつたて)の歸b法の先行性、出口王仁三郎らの大本教が齎したものの意味、友清歡
眞(よしさね)のb道天行居のことや淺野和三郎による「b靈界」の編輯力、田中治吾平の業
績なども、まつたく忘れられてゐる。
 其れどころか、大本教事件やオウム眞理教事件、或は數々の靈感商法や脱税事件などのた
び、意圖的に却掠されてきた。

 今夜は其のあたりを少しく案内してみようと思ふ。“其のあたり”は「千夜千册」では初め
てだ。尤も、早とちりをしてもらつては困る。日本の近代オカルティズムを案内しようと云ふ
のではない。b道的な鎭魂行法と云ふものが近現代の日本にさまざまな根をおろしてゐる事を
案内したい。隱された近代日本史とも云ふべきであらう。
 選んだ本書は、かうした近代後期日本のb靈研究と其の實踐の動向を宗教學の視點から本格
的にとりあげたきはめて例外的な一册で、ぼくが前著『折口信夫の鎭魂論』で注目した著者の
津城寛文によつてまとまつた。めづらしい一册だ。
 本書はタイトルの『鎭魂行法論』があらはしてゐるやうに、斯界ですら正確なトレースが出
來なくなつてゐるb道關聯の鎭魂行法をめぐる理論や人物や所作行爲を、比較的丹念にトレー
スしてみせたもので、近代日本の鎭魂行法や行法家を知るには、一般の書店で入手出來るもの
としては、いまは此の一册しかないと云つてよい。ぼくなりに案内はしてみるが、詳しくは本
書にあたられるのが好いだらう。
 津城寛文は其の後に『日本の深層文化序説』を著して、日本人にひそむ深層を歴史文化的深
層・社會心理的深層・生活感情的深層の3つにさぐり、たいさう説得力のある「日本深層文化
論」とも云ふべき新たな領域に先鞭をつけた。此の著書に就いても紹介したいのだが、今夜は
遠慮しておく。

 抑も行法は村や結社などの共同體から生まれるものではない。古代も中世も近世も、個人が
營む宗教的ないしは信仰的な行爲で、かつては其の當事者はたいてい「行者」と呼ばれた。其
の行者を嚆矢に、其の周圍に行法的な共同體が生じた。
 行法はまた理論活動だけのものではなく、必ず身體性を伴つてゐる。ある種の身體の状態に
獨得の理想をもち、其の身體が達した感覺と靈性の發揮や感得とを近似的にとらへる。したが
つて行法には行者たちの事情によつてさまざまな宗派の色彩が投影されるのであるけれど、時
代によつてもたへず獨自の變化をとげてきた。
 本書はb道的な鎭魂行法しか扱つてゐないので、歴史も其の範圍のスケッチにとどめるが、
もともと原始b道期ともくされる上代には、鎭魂行法は山嶽信仰や葬送儀禮や病者の治癒蘇生
などに結びついてゐた。其れにともなつてb意を糺すための占卜や託宣がおこなはれてゐた。
とくに上代日本は無文字社會であつたので(上代文字があつたと云ふ假説に就いては、511
夜『僞史冒險世界』と294夜『謎のb代文字』、いづれも第5卷を參照)、支那のやうに其
れらの行法が體系化される事も組織化される事もなかつた。
 古代、支那や朝鮮半島から多樣な行法的文物が入つてきた。本書では道教的身體呪法を重視
してゐるが、むろん佛教にも儒教にも呪法も行法もあつた。尤も佛教や儒教が古代日本の律令
制度や鎭護國家佛教システムにいちはやく組み入れられていつたのに對して、道教的或は雜密
的な呪法行法はひたすら民間に廣がり、各種の行者を輩出した。
 其の後、b佛習合がいちじるしく進むと、行法もb佛習合的に成り、とくに密教の行法がb
道的なるものと交じつていく(777夜『王法と佛法』第4卷、910夜『b佛習合』第5
卷)。然し其の一方で、宮中のb道的儀禮は天b地祇や氏b信仰を遵守して、佛教のもつ個人
性を排除してゐたやうで、b祇官が管掌した宮中鎭魂の儀禮には其のころから今日におよぶ制
度b道的な色彩が強かつたと推測される。たとへば、今日なお皇室にはb寶を振動させる宮中
鎭魂の行法があるのだが、此れは物部氏が所傳してきた石上(いそのかみ)b宮の長壽行法と
密接な繼承性をもつてゐて、十種b寶(鏡2、劍1、玉4、比禮3)と唱言が聯動するものに
成つてゐる。
 其の宮中鎭魂法も、實は300年ほど斷絶があり、徳川後期に復活するのである(1091
夜『幕末の天皇』・第5卷)。其のあひだはどうなつてゐたかと云ふと、空海が上奏して認め
られた内裏の傍らの眞言院によつて鎭魂行法が肩代はりされてゐた。行法にもさまざまな斷絶
や代替や世代交代があつたのである。
 他方、中世後期以降、吉田b道・度會b道・兩部b道・法華b道・垂加b道・伯家b道・橘
家b道・復古b道・雲傳b道などが勃興し、確立し、派生するやうに成ると、實に多樣な鎭魂
行法が巷に流出していくことに成つた。鎖國250年から「日の本」の内なるもの、奧なるも
のが噴き出てきたのだ。
 かうして時代は近代に突入し、b佛分離と廢佛毀釋のもと、新たなb社b道の奔流のもとに
獨得の行法家を出現させる事に成る。

 本書は近代の鎭魂行法家を、二つの流れに大別してゐる。ひとつは本田・大本系、もうひと
つは其れ以外である。
 本田・大本系は近代鎭魂行法の嚆矢を告げた本田親徳と、其の系譜に加はつていつた大本教
系の流れのことで、長澤雄楯、出口王仁三郎、淺野和三郎、友清歡眞(よしさね)、谷口雅
春、若林耕七、荒深道齊(あらふかみちなり)、宇佐美景堂、岡田茂吉、岡田光玉(かうた
ま)、佐藤卿彦(あきひこ)、黒田みのる、五井昌久らがつらなる。
もうひとつは先に紹介した川面凡兒に始まり、其れぞれ別々に活動したのだが、田中治吾平、
宮地水位、宮地嚴夫、山蔭基央(もとひさ)らが輩出した。此れらのなかから主な行法家をと
りあげておく。

 本田親徳は文政5年生まれの薩摩のb道家で、17歳のときに皇史を讀んで感動し、東上し
て會澤正志齋や平田篤胤の門に學び、西郷隆盛を介して副島種臣とも交流した。35歳前後に
b祇伯白川家の最後の塾頭だつた高濱清七郎とも交驩があつたやうで、其のとき白川b道を吸
收した。白川b道は公家のb道と云ふべきもので、此處からは幕末維新のさまざまな“默殺さ
れてきた歴史動向”が暗示的に引き出せる。
 本田はさうした幕末の最後の慶應3年の前後に「歸b法」を確立したらしく、其の事跡の細
部はわからないのだが、明治に成つて靜岡縣知事の奈良原繁(薩摩出身)の力添へで靜岡縣志
太郡岡部のb(みわ)b社を最初の據點にすると、ついでは秩父に、川越に道場をひらいた。
其の行法は初期は「b懸三六法」と云ふもので、のちに「本田靈學」と呼ばれるやうに成つ
た。ぼくは以前から鈴木重道編纂の『本田親徳全集』全一卷や佐藤卿彦の『顯b本田靈學法
典』と云ふ本をもつてゐて、「産土百首」や「古事記b理解」や「天數卜原圖」と云つた、さ
うとうに奇妙な歌や圖や解義を折りにふれてちらちら眺めてゐたものだ。
 長澤雄楯は安政5年の清水生まれ、漢學を學ぶかたわら御穗(三保)b社などにかかはり、
月見里(やまなし)家の屋敷で稻荷講社などを仕切つてゐた。やがて明治17年の27歳のと
きに本田親徳に出會つて詰問を悉く論破され、ついで鎭魂歸b術を教へられると、各地のb主
の指導に當たるやうに成つていつた。昭和5年には縣下のb職としてただ一人、昭和天皇に拜
謁した。此の長澤の弟子筋に出口王仁三郎、中野與之助、友清歡眞らが出た。

 出口王仁三郎こと上田喜三郎に就いては、いづれあらためてとりあげたいので今夜は詳細を
省くことにするが、云はずとしれた出口ナオのお筆先から生まれた大本教を殆ど獨力で一舉に
擴張した大立者である。書くこと、爲すこと、作る事、いづれも奔放で破天荒だつた(書もお
もしろい)。
 明治4年に龜岡穴太に生まれ、明治21年に本田親徳に出會ひ、明治31年に丹波綾部の出
口ナオと出會つてゐる。長澤同樣に稻荷講社の活動が原點にある。奇書とも云ふべき大著『靈
界物語』には、長澤雄楯が審b者(さにわ)と成つて自分を招いたと云ふ記述がある。詰り王
仁三郎は長澤の鎭魂行法によつてb懸かりに入つたと云ふのだ。大本系では、憑依していく者
をb主といい、憑依をふくむすべての活動を傍らで統御する者を審b者と云ふ。其のうへで主
として「歸b」「b懸」「b憑」の3つを説き、行法化した。
 其の王仁三郎の大本教に淺野和三郎が登場してくる。云つとき「大本の淺野か、淺野の大本
か」と言はれたほどだが、活躍は大正6年からの數年間に集中する。「b靈界」を編輯して(
のちに「心靈界」)、王仁三郎の絶大な信頼を得た。が、大本教が彈壓され、遂に其のb殿が
爆破されるにおよんで(此の顛末を書いたのが高橋和巳の『邪宗門』)、淺野は單獨の心靈研
究に乘り出していく。今日の日本心靈科學協會は其の土臺のうへに築かれた。

 友清歡眞は明治21年に山口に生まれ、11歳でb隱しにあつたのがきつかけで、政治性と
b祕性の兩方に惹かれてゐた。大正6年に英彦山で雷鳴に打たれたのがさらなる轉機と成つ
て、修驗・密教などをへたのち、淺野和三郎が審b者と成つて大本教に入信した。
 が、まもなく大本教に疑問をもち、本田靈學に囘歸した。やがて九鬼盛隆とともに格b會を
おこし、此れが前身と成つて「b道天行居」を結社した。其れが大正10年である。「淨身鎭
魂」(みきよめたましづめ)を唱導した。昭和に入ると山口縣熊毛の石城山に日本(やまと)
b社をおこした。此のb社名から想像がつくやうに、友清歡眞はひとかたならぬ國粹主義にも
傾いてゐて、日米決戰の必然を解いて各地の山上で靈的國防b事を舉行してゐる。
 谷口雅春はよく知られてゐよう。「生長の家」の創始者である。ただ其の前は早稻田大學、
退學、紡績工場勤務、退職と云つた事をくりかへして、當時のb靈雜誌「彗星」で大本教を知
つて入信、大正7年には綾部に移住して可也どつぷりと大本の日々を送つてゐた。
  第一次大本事件ののちは暫く淺野和三郎の心靈研究を手傳つたりしてゐたのだが、やがて
クリスチャン・サイエンスやニューソートの動向にも惹かれるやうに成り、唯心論にのめりこ
んだのち、昭和5年に「生長の家」を立教した。其の鎭魂行法は「b想觀」と名附けられてゐ
る。附け加へると、ぼくの母は穩便な「生長の家」のシンパサイザーだつた。母はぼくにも『
甘露の法雨』と云ふ短い經典のやうなものを讀むやうに頻りに勸めてゐた。
 岐阜の中洞村に生まれた荒深道齊は、長澤の高弟の若林耕七が審b者に成つてb懸かりし
て、更に淺野によつて大本のb髄にふれていつた。昭和3年に「純正眞道(まことまさみち)
研究會」をおこした。今夜の冒頭にあげた「依靈」「水滌嚴法」「眞澄息吹」と云つた用語は
すべて荒深道齊による造語である。依靈は憑依靈を離していくこと、水滌嚴法や眞澄息吹は清
水とのかかはりや呼吸法のことを云ふ。いづれも現實の人間が「本靈」(もとひ)や「直
靈」(なほひ)に成れる方法を示唆しようとしたものだと思へばいい。
 宇佐美景堂は、もともとはb宮皇學館の出身で伊勢b宮に奉職してゐたb社b道の"正統派"
であつたのだが、大正4年に大本教に入信してから可也變化した。大本も早々に退會して、名
古屋の水野萬年の言靈學を學んだり、警視廳巡査に成つたり、日本大學の宗教學科に年長入學
したり、龍田b社や丹生b社に務めると云ふやうなb社b道的な經歴をもつてゐる。

 此れで本田・大本系のだいたいの流れが見えてきたとおもふが、當時の大本體驗が如何に決
定的な轉機を齎してゐたかは、よくわかるであらう。いづれも貧乏・病氣・不遇・不運の時期
ををくつてゐた者許りである。都會出身者は一人もゐない。
 岡田茂吉も其の一人で、かつ最後の大本系の行法家であつた。岡田はいまは世界救世教の開
祖として知られるが、矢張り病氣・事業破綻・妻子との死別などを連續的に體驗したうへで大
本に入つた。大正9年の入信、昭和9年の退會である。
 岡田が大本から學んだものは「立て替え・立て直し」の思想と藥物批判の思想だつた。藥物
批判とは、其のころの多くのb道系の新宗教が重視してゐた事で、醫學や藥物によつては病氣
は治らないと云ふ思想を云ふ。ろくな醫療をうけられなかつた大正昭和期の日本の地方の實態
から派生した治癒思想でもあつたが、其れが近代日本人の靈力への關心を高めたのである。岡
田はとくに王仁三郎が考案した「御手代」(みてしろ)に影響をうけ、和歌を書いた扇を鎭魂
の行器にした。王仁三郎は杓子に和歌を書いて拇印を捺し、其れをもつて信者の靈的治病具と
した。かうした岡田の活動はのちにまとめて「淨靈」とよばれる。
 岡田光玉(かうたま)は其の岡田の世界救世教から分派して、世界眞光(まひかり)文明教
團を創始した。其の「眞光の業」や「手かざし」は世界救世教の淨靈の庶子である。苗字は同
じ岡田だが、まつ度く血縁關係がない。
 此のほか本田靈學の正統をうけついだ佐藤卿彦(月見里稻荷講社の出身)、「ス光光波世界
b團」や「光輪」の黒田みのる(スはスサノオ)、日立製作所の工場から世界救世教・生長の
家・千鳥會をへて「白光眞宏會」をおこした五井昌久らがゐる。

 本田・大本系に對して、獨立系とも云ふべき流れの當初にゐるのが、先に紹介した川面凡兒
である。大分の宇佐b宮の近くに生まれた。其處に馬城山と云ふ靈山があつて、川面は其處に
入山して靈驗を得た。
 明治18年に青雲の立志をもつて上京、苦學してゐるうちに小石川傳通院の松浦泰成に見込
まれて、麻布の阿彌陀院に住まひを供されると其処から佛教研究にのめりこみ、暫くは蓮池蓮
華寶印のシンボリズムに打ちこんだ。其の後、明治25年に淑徳女學校の教壇に立ち、自由黨
の黨報の編輯、長野新聞の主筆などを務めた。其のころ長野新聞に對抗してゐた信濃毎日新聞
の主筆が山路愛山だつた。
 川面は其のあとも紀州熊野實業新聞の主筆をはじめ、各地の論説にかかはり、寄稿も多くな
るのだが、日清・日露の兩戰爭をくぐりぬけるうちにしだいに國家を憂ふやうに成り、遂に明
治39年春に東京谷中の三嵜町に於て「大日本世界教稜威會」を設立した。「稜威」はイツと
讀むのではなく、「みいず」と讀ませてゐる(稜威に就いては483夜の山本健吉『いのちと
かたち』、564夜の丸山眞男の『忠誠と叛逆』などを參照。いづれも求龍堂「全集」第5卷
所收)。
 川面の稜威會は最初のうちは講演會形式だつた。其處に御嶽教の管長のb宮嵩壽、國學者の
井上頼國、さまざまな僧侶たちが聽講しにきてゐた。蓮沼門三の修養團はそんな川面に講演を
依頼した。明治42年冬、川面は最初の「禊」の行を寒中に敢行する。b奈川の片瀬の濱であ
る。奈雪鐵信が參加した。ついで長野の山中で夏の禊を、其の後は各地で禊の會がひらかれて
いつた。修養團は其の後も川面が開發し、のちに國民體操にも採用された「とりふね運動」に
も關心を示して、其の特徴をとりいれていつた。

 稜威會の影響はしだいに廣がつていつた。大正3年には奧澤福太郎の盡力で、海軍將校秋山
眞之(司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公)、法學者鵜澤聰明、海軍大臣八代六郎、檢事總長
平沼騏一郎らが川面に接觸するやうに成り、「古典考究會」なるものも海軍クラブの水交社に
發足した。來賓に八代六郎・杉浦重剛が、祝辭に頭山滿・筧克彦らがつらねた。
  此の「古典考究會」はのちに『古典講義録』として29册のシリーズと成り、井上哲次郎を
して「將來もしb道一切經とでも名附くべきものを編纂される事あれば、川面氏の著作は尤も
重要なる地位と大なる分量を占むるであらう」と書かせた。
 禊の重視も廣がつた。とりわけ九州福岡では川面への傾倒がいちじるしく、福岡縣のb職の
多くが川面の禊を必須にするやうに成り、大正5年には福岡市長が川面を招いて講演會を開催
し、翌年には筥嵜に稜威會福岡支部が發會するまでにゐたつてゐた。福岡出身の幡掛正木、鷲
津耕次郎、行弘糺らが其の後のb社b道界に川面の行法を廣めていつた事は、よく知られてゐ
る。
 とくにb宮奉齋會の會長で、大正期には「b道界の最高長老」と噂されてゐた今泉定助が川
面の禊の會に參加するにおよぶと、b道界の多くが川面式の禊行を援用するやうに成つた。其
の行法は冒頭にも一寸書いておいたが、「祓・禊・振玉(ふるたま)・雄健(おたけび)・雄
詰(おころび)・伊吹」の6階梯に成つてゐる。
 然しかうした川面の活動は、軍部の臺頭とともに其の利用するところと重なつていつたので
もある。今泉のはたらきによつて大政翼賛會が國民的行事に禊行を採用したためだつた。あげ
く、川面凡兒も超國家主義イデオロギーの中心人物の一人と看做された。
 川面は昭和5年には死んでゐる。したがつて日本のミリタリズムの暴虐とは重ならない。然
し昭和14年の十周忌は九段の軍人會館で舉行され、齋主に高山昇(前官弊大社稻荷b社宮
司)、副齋主に富岡宣永(東京深川八幡宮宮司)、祭文奏上に水野錬太郎(全國b職會長)が
立ち、總理大臣平沼騏一郎、文部大臣荒木貞夫が列席した。其の翌年が大政翼賛會の發足だつ
た。政治家たちの常套句に「みそぎ」が使はれるやうに成つたのは、此のときからなのだ。

 此のほか獨立系として、高知の宮地b仙道の一文に成る宮地水位や宮地嚴夫(ニギハヤヒの
鎭魂行法を説いた)、岐阜出身の東洋大學印度哲學科のb道學者で、『b道哲學』『鎭魂傳習
録』の著書もある田中治吾平(じごへい)、更には可也特異な山蔭基央などがゐる。
 此處では最後に山蔭基央だけとりあげるが、山蔭家は歴代皇室に仕へた古b道家だと云ふこ
とに成つてゐて(オオナムチとスクナヒコナの二bが傳へたb道)、所謂山蔭b道(吉田b道
の分派)に屬する。76代の中山忠伊が光格天皇の庶子の皇子、77代の中山忠英が明治維新
で王政復古を唱へた大日本皇道會の組織者、其の三男の78代中山忠徳が皇典考究所(現在の
國學院大學)をへて御嶽教に入り、ついで御嶽本教をおこし、此れを昭和4年に改稱して「人
類愛信太祖教」(のちの愛信會)とした。
 山蔭基央は此の愛信會の主幹と成つた人物で、のちに中山忠徳の養子に成つたため(昭和2
1年)、山蔭b道を繼いだ。いまは天社山山蔭b道愛信會を主宰する。

 ざつとこんな流れである。どの行法がすぐれてゐるかなどと云ふことは、ぼくにはさつぱり
わからないが、かうした數々の動向が近代から現代史の流れのなかにくみこまれてゐて、多く
の民衆的な日本人を動かしていつた事は、矢張り額面どほりに認識すべきだらう。たんに近代
オカルト主義とか靈感趣味としては片附けられないものがある。
 なかで、鎭魂行法の行爲的思想としてとくに注目するべきだと感じるのは、矢張り川面凡兒
であらうか。
 川面の直觀にはつねに二つの靈的動向がとらえられてゐる。ひとつは世間の周邊に出入りす
る靈的エネルギーで、もうひとつは大bが降ろしてゐる稜威の靈的エネルギーである。其のあ
ひだに人がゐて、御幣をかざして禊や祓をするメディアに成つてゐる。さう見れば察しがつく
やうに、此れは現在の大半のb社b道がおこなつてゐる儀式的行爲の圖式とまつたく變はらな
い。が、川面は其處に「微分子」と云ふ細部の流入性と脱出性をになふ擔體を想定して、實際
の鎭魂や脱魂がどのやうにおこるかを詳しく説明した。
 其のあたりのことは本書にも正確にトレースされてゐるので、知りたければ其れを讀んでも
らつたはうが好いが、其の川面の行法が、一方では今日のb社の其處かしこにストイックに入
りこみ、他方では大政翼賛會とともに戰中の日本に波及したと云ふことを、あらためて考へる
べきなのである。
功罪半ばだと云ふのではない。日本人はいまでもことあるごとにb社でお祓ひをうけてゐるの
だが、さうした禊や祓をどのやうにうけとめてゐるのか、此處らでちやんと考へたはうが好
い。さう、言つてゐるのである。
 鎭魂行法は宗教學的にはシャーマニズムの系譜に入る。其處には憑靈型のものと脱魂型のも
のがある。そんなことはシャーマニズムの歴史此のかたずつと續いてゐる事だ。然し、其の
シャーマニズムが今日の日本のb社の其處かしこでも“近代的”に繼續されてゐると云ふふう
には、ふつふは思はない。けれども、さうした見方をいつさいしないやうにしたとたん、寧ろ
日本は奇怪なオカルティズムに犯される事に成るのである。聊か、じつくり考へなほすべきこ
とだらう。

附記¶おそらく殆ど入手出來ないだらうけれど、いくつかの“原典”を示しておく。『本田親
徳全集』『顯b本田靈學法典』(山雅房)、『大本七十年史』(宗教法人大本)、池田昭編輯
『大本史料集成』(三一書房)、『友清歡眞全集』(b道天行居)、『生長の家五十年史』(
日本教文社)、荒深道齊『古b道祕訣』(八幡書店)、田中治吾平『鎭魂法の實修』(霞箇關
書房)、山蔭基央『日本の黎明』『b道入門』(白馬出版)、『川面凡兒全集』(川面凡兒先
生十周年記念會)などだ。參考書として岸本英夫『岸本英夫集』(溪聲社)、佐々木宏幹
『シャーマニズムの人類學』(弘文堂)、I・M・ルイス『エクスタシーの人類學』(法政大
學出版局)、金井南龍『b々の默示録』(徳間書店)、鎌田東二『b界のフィールドワー
ク』(創林社)、齋藤稔正『變性意識状態(ASC)に關する研究』(松籟社)などをあげて
おく。
 津城寛文の著書に就いても、一言、加へておき度い。著者は東大農學部林學科と東大大學院
宗教學宗教史學の出身で、現在は城西國際大學教授と國學院大學日本文化研究所の研究員を兼
ねてゐる。で、其の著書だが、本書、『折口信夫の鎭魂論』(春秋社)、『日本の深層文化序
説』(玉川大學出版部)ともに、いづれもおもしろい。よく書けてもゐる。とくに『日本の深
層文化序説』は此の著者の新たな出發點を物語つてゐて、既存の日本人論を決定的に組み替へ
るアフォーダンスとスコープを提供した。扱つてゐる範圍が廣すぎて、全體にはすぐれた概觀
を提供してゐるにとどまつてゐるのだが、其れでも日本人の心性にひそむ文化的深層を「地」
と「圖」に峻別して眺望してゐる視點がよく、類書と比較すると云ふより、此處から新たな日
本文化論や「日本と云ふ方法」への深化がおこるだらうと云ふ豫感をもたせて呉れた。
 實は此の本の6章「文化史の深層」と8章「原風景への郷愁」には、ぼくの『花鳥風月の科
學』が登場してゐて、一寸感慨深かつた。1995年の著書なので、まだぼくが『フラジャイ
ル』や『日本流』や『日本數寄』などを發表してゐない時期で、よくぞ『花鳥風月の科學』一
册で其の考へ方の骨骼をとらへたものだと、當時、感じた。其の後の書きおろし著書が待たれ
る炯眼の研究者なのである。
 
 
『鎭魂行法論』津城寛文 松岡正剛の千夜千册・遊蕩篇
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1147.html
 
 
 
 
 
 
 

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