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オタク問題についての対談(森川嘉一郎さん)での宮台発言抜粋です。
宮台/90年代に入る頃から街が島宇宙化ないしトライブ化しますが、インターネット化によって種族ごとに棲み分けるこの作法が強化されます。インターネットは距離コストと探索コストを低減し、趣味のマイノリティでも性的マイノリティでも仲間を容易に見つけられるからです。ピンポイントなフェチでもパートナーを見つけられる。一見多様性が広がったと見えますが、個々のプレイヤーからすると多様性を経験しなくて済むのがポイントです。同質性の高い仲間と同質的な情報空間にどっぷり浸かれる。僕は「摩擦係数の低いコミュケーション」と呼びます。普通は「摩擦係数」の高さゆえに淘汰されるはずのコミュニケーションが、ネット社会ゆえに生き残れる。それがネット社会の決定的特徴で、これがいい面にも悪い面にも働きます。悪い面の例は、従来互いにコネクトできなかった反社会的な者たちが、簡単にコネクトして仲間になり、悪事を共謀したり協力する場合です。
宮台/オタク的文物に内容的な関心のない人々がカネになると思ってオタク的ゲームを仕掛けていますが、ピントがずれている状況です。これはニート現象と似ている。「様々な理由で求職していない若者」は増えても、巷で問題化されている「就労意欲そのものを持たない若者」は増えてない。なのに、増えているという前提で予算と人員が配置され、新しい言語ゲームが始まっている。オタク現象の周辺も同じです。『電車男』が典型です。「オタクの言語ゲーム」ではなく「オタクをネタに言語ゲーム」が拡がっているからです。
サブカルチャー史的にはオタクが出てきた経路は明確です。1960年代後半は、団塊の世代が「ここではないどこか」を政治的に実現しようとした「政治の時代」です。それが挫折した70年代前半に、「ここではないどこか」を文化的に希求する「アングラの時代」に変わる。70年代後半にもう一つのシフトが起こる。世の中楽しく生きられない奴だけが「ここではないどこか」を希求する。ならば「ここではないどこか」を希求するのでなく、「ここを読み替えよう」と。こうして「記号の時代」になる。最初は60年代のパロディ文化を流用した『ビックリハウス』的諧謔でしたが、程なくパルコ的お洒落記号になります。それを僕は『サブカルチャー神話解体』(93年)で「洒落からお洒落へ」と呼びました。
ところで読み替えゲームにも「新人類的なもの」と「オタク的なもの」があります。新人類的なものとは、デートカルチャー的に現実を粉飾する「現実の虚構化」。どうでもいい空間がお洒落スポットになります。ところが「現実の虚構化」ゲームは、性愛コミュニケーションが前提でしたから、当然不得意な人も出てきて、現実を演出するより、現実と無縁な異世界を現実がわりに生きるようになります。オタクたちの「虚構の現実化」です。
森川さんの『趣都の誕生』には街の比較が出て来ます。「現実を虚構化」する渋谷的方向と、「虚構を現実化」アキバ的方向。森川さんは建物の壁に注目します。演出された現実の男優や女優として自分を見せるべく、外壁が透明な渋谷系建物。現実を遮断して異世界に入り込むために外壁に窓がないアキバ系建物。分かりやすい。僕も『サブカルチャー神話解体』で、「現実の虚構化」と「虚構の現実化」方向は、陳腐な日常(後の本では「終わりなき日常」)を生きる知恵として機能的に等価で、永久に続くだろうと書きました。
ところが違いもある。以前は「現実」がもっと生々しく体験されていました。それが90年代半ばから生々しくなくなって、「虚構の現実化」と「現実の虚構化」との区別が意味を持たなくなります。現象としては「オタク差別の衰退」「オタクのオーバーグラウンド化」です。ナンパが不得意であることが重大でなくなり、オタクを平気で自称できるようになります。ナンパ系とオタク系がただのトライブの違いになります。むろんトライブの違いは街の景観を変えるほどの帰結を生みますが、逆にいえば街の景色を変えることが許容されるほどには公認されている。かくして、多大なコストをかけてまで「現実を」生きなければならないという強迫や、強迫を支える「現実の手触り」が、消えていきます。
宮台/僕が初期ギリシャ哲学が好きですが、その視座から言うと人間の実存形式に新しいものはありません。現に「虚構の現実化」も「現実の虚構化」も両方ともギリシャ悲劇で描かれてきました。以来「人間はそういう風にしてしか生きられないものだ、なぜなら世界とはその程度のものだから」という感覚を教養人たちが反復的に確認してきました。ただ、形式として凡庸でも、内容として新しいということがあります。街の形式が、渋谷とアキバで真っ向から対立するのだとして、人が「ある時には渋谷に、ある時はアキバに行く」のでなく、渋谷に行く人とアキバに行く人とが人格的に分かれていて、誰もがそのことを自覚していると見える。新しいことだと思います。
僕は高校時代(74年から77年まで)SF同好会の一種を作りました。僕ら世代のSF同好会が一番盛り上がった。ところが僕の2学年下から、違う種類の人間が同好会に入ってくる。マイケル・ムアコックや松本零士がSFだと思う連中です。SFを社会批評だと信じていた僕ら世代にとって、「旅する男」「母なる女」の如き1960年代の残りカス的キャラクターが登場するマザコン的ファンタジーは、笑い話ではあれ、ファンタジーSFでさえなかった。ところが下世代はベタにマイケル・ムアコックや平井和正にハマる。僕らは「SFは終わったな」と思いました。
これが『サブカルチャー神話解体』で書いた「SF同好会からアニメ同好会へ」という流れです。ちなみに75年はテレビの『ヤマト』、77年は映画版『ヤマト』のブームです。僕の経験ではこれが最初の「虚構の現実化」的人格です。僕ら世代までは、SFを論じ、宮崎駿らの『太陽の王子ホルスの大冒険』のセル画展をやりつつ、文化祭に来た女の子をSFネタにナンパするというという具合に、新人類的(ナンパ系的)要素とオタク的要素の混在が当たり前だったのが、非モテ系だけがマイケル・ムアコックや『ヤマト』にハマるようになってきます。「現実に関われない奴が虚構にハマる」図式の顕在化です。
宮台/それ[オタクに陽を当てること]はいかがなものかな(笑)。『サブカルチャー神話解体』では「現実の虚構化」「虚構の現実化」の対立とは別に「諧謔から韜晦へ」という図式を出しています。僕はオタクとマニアの共通性を「情報の過剰利用」だとした上、「マニアは諧謔だが、オタクは韜晦だ」としました。諧謔は「なーんちゃって」という具合に「情報の過剰利用」を「現実の付加価値を高める戯れ」として使う。「現実がつまらないから、現実の読み替えに興じているんだよ、情報を過剰利用してるのだ」と自己弁護もできます。それに対し韜晦は、「わかってやってんだ」じゃなく「どうせおいらは」的な姿勢です。
「どうせオイラは」は森川さんが言う“ダメ指向”に近い。ダメを指向するから「どうせオイラは」となり、「どうせオイラは」だからダメを指向する。想像された世間的標準に対する「どうせ」です。「世間は自分らを低いものだと見てるでしょ」という具合。「なんてね」というマニア。「どうせ」というオタク。同じ「分かる奴には分かる」でも、マニアは「高踏派」に向かい、オタクは「敷居の低いもの」に向かう。立ち位置を世間的標準に比べて、高い所に置くか、低い所に置くかです。
そんなオタクを「社会の真ん中」に持ってくれば、「どうせオイラは」じゃなくなっちゃう。現に社会の真ん中に来た東浩紀や村上隆はオタクたちから「オタクじゃないじゃん」と見做されるじゃないですか(笑)。では「どうせオイラは」と韜晦する際の、想像的な世間的標準に、実体があるのか。それが疑問です。島宇宙化が進めば、異なる島宇宙間は無関心さで隔たれるので、世間的標準の圧力はゆるくなるはずです。森川さんに伺いたいのは、若いオタクたちが世間的標準をどう感じているかです。アキバ系の子は渋谷の風景に何を感じるのでしょうか。
宮台/現に世間が自分を見下しているか否かに関係なく、世間が後ろ指をさす「ようなモノ」に自分から向かう。その背後には、世間的視線よりも自意識があり、世間がどう言おうと“自分はダメだ”という確信がある。だからこそダメなまま生きていける虚構空間を選好するのだ、と。確かにそう思います。実感があります。実家が金持ちだろうが東大に進学しようが、“自分はダメだ”との自意識を持つ若者が量産されているからです。この“自分はダメだ”という自意識はどこでプリントされたんでしょう?
宮台/オタクの核にある“ダメ意識”は、オタクが誕生する70年代後半には、異性にモテないとか「性と舞台装置の時代」についていけないという具体的な不得意意識でした。それが、89年の宮崎事件をファーストインパクト、95年のオウム事件をセカンドインパクトとして、ある種の虚構への関わり自体が“ダメ意識”の源泉になります。そこから先は、世代交代に伴う標準化と周辺化の自動運動から“ダメ意識”が生み出されるというわけですね。
全てに共通するのは、何らかのディプレッション(抑鬱感)がないと“ダメ意識”が生まれないこと。ディプレッションをもたらすには何らかのサプレッション(抑圧)が必要です。抑圧なくして抑鬱なく、抑鬱なくして“ダメ意識”なく、“ダメ意識”なくしてオタクなし。でも、世代交代でネタがベタになり、それを上世代から批判されるとして、その程度の抑圧如きで、オタク文化に必要なコアな“ダメ意識”をプリントされるのでしょうか。逆に言えば、オタク文化の生産力にとって、「どうせオイラは」的自意識を持続するための社会的抑圧もそれなりに高度でなければならないと思いますが。
宮台/年長オタクが年少オタクに「ネタだったものをベタにやりやがって」という批判は、世代が変わる度に起こるでしょう。そうした批判の急先鋒が僕です(笑)。でも年少オタクがそんな批判をこれからも気にするだろうか。そんな批判程度で“ダメ意識”が維持できるのか。だんだんオタク文化のクオリティが下がるんじゃないか。その辺、いかがですか?
宮台/焼き畑文化みたいなものだと(笑)。焼き畑をしたら土地が瘠せるから別の土地に移って焼き畑する。フィギアのフェスティバルにおけるオタクシーンの衰退も、焼き畑的な意味で賞味期限が切れたに過ぎず、実は収穫の上がる畑が移動したに過ぎない。アニメ版『攻殻機動隊』のラストの台詞じゃないが、ネットは実に広大で見渡せない。まだ焼き畑していない森はたくさんある。賞味期限切れを宣告する世代間闘争があれば自動的に焼き畑は移っていく。だからオタク文化は全体的には廃れない。ネタとベタとの関係でいえば、メジャー化していないが故にベタ化していないネタの領域は豊富にあるのだ、と。
とすると、経産省がオタク文化をアシストするのは無意味でしょう。経産省はせいぜい今焼いている畑に出て行くだけ。しかしそれはノーマライゼーション(標準化)を推し進め、その畑が丸焼けになる、つまり賞味期限切れになるのを、早めるだけ。シーンのフロントはいつも別の場所に移動してしまう。理論的にはそうなりそうですが、どうでしょう?
宮台/まさに冒頭の話ですね。オタクの言語ゲームと、オタクをネタにした言語ゲームとは違い、後者であってもそれなりにカネを回すことができるのだ、と。
宮台/オタク的な最前線あるいはプライマリーなゲームは、経産省が耕そうとしているセカンダリーなゲームと無関係な場所で展開する──これが第一のポイントですね。次に、プライマリーなゲームに不可欠な「どうせオイラは」という韜晦的“ダメ意識”は、僕ら新人類世代のように「現実に乗り出せるか否か」をめぐって刻印されるとは限らず、世代交代に伴うネタのベタ化ゆえに自動的に与えられる──これが第二のポイントですね。質問ですが、このプライマリーなゲーム自体に部外者がカネ目当てなどで棹差すことができるのか。もちろんセカンダリーなゲームについてはできるでしょうが。
宮台/オタク的言語ゲームのフロンティア──プライマリーなゲーム──を直接パブリックセクターが支援するのは論理的に不可能だろうが、優秀なキャラクターデザイナーを支える才能的な裾野の拡大については、美術教育が役立つのだ、と。面白い。政府は、才能あるクリエイターが育つための裾野の拡大を図れるが、政府が、才能あるクリエイターを直接支援することはできないということですね。才能あるクリエイターの支援が決まった途端、彼はもう“ダメ意識”を持つ「どうせオイラは」的存在に見えなくなるからですね。
日本の美術教育の話ですが、本当に内側から湧き上がるものを描けというのは初期ロマン派的発想です。それこそが日常を揺るがす非日常だと。国語教育が文学鑑賞という非日常支援なのと同じく、美術教育も初期ロマン派的表現という非日常支援です。「そうじゃない、日常を支援すべきだ」というのは僕も賛成。初期ロマン派は、人々の内面が共通の力に貫かれること──僕の言葉では「表出の根」を共有すること──が信頼された初期ギリシア時代を、不可能と知りつつ憧憬する立場です。国語教育や美術教育がそうした不可能性に傾斜するのは、一人の天才を生むために一億人を教育することを意味します。
日常のコミュニケーションや言語ゲームのメジャー部分に影響を与えたいなら「模倣と反復を通じた洗練」しかない。森川さんも書くように、美少女キャラクターの洗練度は凄い。日本民族の資質を感じます(笑)。江戸時代に存在した非正統的な模倣と反復の中で出てくる伊藤若冲の如きミニマリズム。それが続いています。もっと踏み込めば、日本の正統的美術教育で初期ロマン派的図式が反復されるが故にこそ、模倣的反復にいそしむ人間が「どうせ、オイラは」という出発点をとりやすいのだとも言える。
宮台/正統美術教育の根底にある「強烈な内発性が〈社会〉の底を踏み抜いて〈世界〉に通じる扉を開く」などという図式を信じる人はもういない。むしろ「全ては模倣的反復の枠内に入る」というのがポストモダン的感受性です。これが永久に続くでしょう。
宮台/摸倣と反復を軽蔑する近代主義的進歩史観が陰ってきたから、摸倣と反復による洗練が勝負となる日本的オタク的表現が突如として拡がったのだ、とも言えますね。
宮台/森川さんの図式はオーソドクスなので非常に強力です。その中身は、非正統的たるがゆえに凄いというのが日本の大衆表現だったというものです。その大衆表現をもっと凄くするべく日本政府が梃子入れした途端、正統的になってしまう──ノーマライズされる──がゆえに凄くなくなる。正統を汚し続けることが凄くあり続ける秘訣だと。賛成です。
その意味で、穿った見方をするなら、政府支援も意味があるかもしれない。政府が支援する。支援された人が浮かばれ、されない人が浮かばれない。この格差から新しい“ダメ意識”が生まれる。とすれば、「どうせオイラは」的意識を量産するべくオタク・エリート教育を進めるという事業があり得ることになります。但し、支援された人間でなく、支援されなかった人間からエリートが生まれるのですがね。とすれば、なかなか洒落たソーシャルデザインです。むろん“ダメ意識”を生み出すためのエリート教育だとは表明できない。表明した途端、エリートはエリートじゃなくなり、“ダメ”は“ダメ”じゃなくなるから。