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先日、アンビリバボーで「生まれ変わり」の物語を放送していた。
あの話が「実話」だとすれば「生まれ変わりの実在を否定するのは不可能」というような内容であった。
超常現象、超能力、霊界、エクトプラズム等、オカルト分野の話は「現代の科学」では否定されがちだが、科学では割り切れない「世界」というのはあるのだろうとKは思っている。唯物論とは相容れない世界は実在するのだろうと思う。
しかし、仮に「人をホウキに跨らせて、崖の上から飛ばせた」として、10人飛ばせれば10人死ぬだろうと思う。一万人にさせれば一万人が崖に落ちるだろうと思う。
おそらくは「一億人飛ばせても、多分、一人も飛ぶことはできない」だろうと思う。
Kは思うのだが、仮に、どこかの宗教家の言っている事が真実であっても「それを、普遍的に普通の人が行えないのなら、そんなものは真実ではないのと同じ」なのだろうと思う。
仮に「大昔にホウキに跨って空を飛ぶことができた魔女」が実在したとしても、そのメカニズムが判明し、再現可能でないのなら、そんな「特異例」に何の価値もないのだろう。
「科学も宗教の一種」という意見がある。確かに今の科学は未発達な部分もあり、かなり怪しい部分もある。更に言えば「今後の発達次第では全てが解明できる」というのも非常に怪しいだろう。
しかし、科学とオカルトでは「確率的に圧倒的な差」がある。
「手に持った林檎」を放した場合には「絶対に林檎が落ちる」とは言えないかもしれない。しかし、突然の「林檎を吹き飛ばすような突風が吹く」と云う確率や、落ちる途中で「動物が咥えて飛び去る」と云う確率は「ゼロではないが、限りなくゼロに等しい」確率だろう。更に言えば「超能力とか超常現象で、重力が失われたような状況になって落ちないで空中に浮く」と云う確率はもっと段違いに低い確率であるだろう。
「生まれ変わり」という現象が実在する。というのと「その事実を活かす事ができる」というのは、全く別の事なのである。
「人為的な再現」が可能でない場合には、実生活では「その事実は無価値と同じ」と言えるだろう。
例えば「超文明を持った宇宙人が存在する」としても「接触する事ができ、コミュニケーションができなければ、それは存在しないのと何ら変わらない」だろう。
「宗教の説く真実」が仮に「本当の真実」であったとしても、それが、一般の人に触れる事ができ理解できるものでないのなら「それは真実ではない」のと同じなのだろう。
「特異体質」とか「特殊能力」を持っていないければ「触れる事もできず、理解できない」のなら、それは「普通の人」には無価値である。
癌になった人がいたとして、今現在は多分「科学療法」の治癒率が一番高いだろう。
「祈祷」で治る人もいるかもしれないが、治らなくとも「信心が足りなかった」とか言われるのが落ちで、おそらくは「その落ちに終わる確率の方が高い」だろう。
ただ、本人が信じるのは自由である。しかし「他人に勧める」のは、一種の犯罪だろうと思う。どこかの宗教では「輸血を拒否して、死に至った」
「死後の世界」とか「極楽浄土」などがあるとしたって、誰も実証した人はいない。
Kは元々「X68000ユーザー」であり、良く友人などに「どのコンピューターを買うのが良い」と聞かれたが、ほとんど「PC98」を勧めた、その方が「その方が確率的に有効活用できる」と思ったからである。マシン性能とすればX68の方が上と確信していたが、それは「Kのような特殊なマニアなら活かせる可能性がある」という不確かな可能性であり、実用ソフトの充実度などから「マニアでない人」では危険な確率も高いと判断したからである。
自分の基準を「絶対」として、他人にも「同じ基準」を押し付け、その事によって「他人に不幸をもたらす可能性が高い」とすれば、それは「罪」と呼べるだろう。
「宗教」というのは「証明」も難しく「ほとんどは、個人個人の主観の世界」だろうと思う。再現性が高く、確率的な部分で可能性も高い「科学」とは決して同列に論じる事はできないものだろうと思う。
だから「布教には慎重の上にも慎重であるべき」であり、決して「強制的な部分を容認してはいけない」のだろうと思う。
繰り返すが「システム的に判明していないものは、仮に「実在していたとしても、存在していない」のと同じなのである。