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Kも充分に未熟なので、試行錯誤を繰り返している「議論の仕方」なので、大きな事は書けないのだが、Kが過去に行った議論での中でいくつかの経験則から思った事などを少し書いて考察しておきたい。
議論には「反論」が付き物だと思うが、この辺には一定のマナーがあるだろう。
「反論」と「論破」は厳密には別のものなのかもしれない。
「提示された意見に同意できないという意見」=「反論」
「提示された意見のコア(核心的部分)の間違いの指摘」=「論破」
と、Kは考えるが、ここで問題なのは
「提示された意見のコアではない部分の不備などの指摘」で「論破」したと思う勘違いだろう。
「反論」>「論破」という事であるが「論破」は「反論」の一つの形式だろう。
「反論」の手法としては大まかに分けて「対抗論」「不備の指摘」「間違いの指摘(コア部分なら論破)」「イメージによる誘導」と云った技術論が考えられる。
「対抗論」というのは「Aという結論に達するに比べ、Bという結論の方が良いのでは?」というような「より効果的な方法論の提示」が基本である。
「不備の指摘」とは「個人的な思い込み・視点の見落とし」などの「結論に至る、材料の分析とか、状況把握」への問題提起である。
「間違いの指摘」とは「採用されたデータとか、結論に至る過程もしくは結論部で明らかなミス等がある場合の指摘」である。
現実には「反論」にはこれらの複合や「これ以外に分類される場合」もあるのだろうが、基本的には「提示された意見への疑問・不備」であるのだろう。
ただし「技術論(ディベート技術)」と云う意味では「イメージによる誘導」という物が出てくる。これは大別して「意見そのもの」か「意見提示者」もしくは「意見の根拠材料(人物か意見)」に対して「意見の本質ではなく、意見もしくは人物に対しイメージ形成もしくは、既に存在するイメージを利用する事によって、意見の価値観を失わせる」という「勝つための技術」という部分が大きいだろう。
反論は「論理考証」によって形成されるべきなのだろうが、イメージによって「結論の誘導を行う」という事は「議論においては最大のマナー違反」なのかもしれない。
「浅学非才のアホ」であっても「人格に多少の問題」があっても、仮に「犯罪者」であっても、その事だけで「意見」が間違っている事の立証にはならないだろう。
また、イメージ的な常識(物理的な摂理法則などは除き)に反する事だからという理由だけで「間違っている」と決め付けるのも間違いを招く可能性がある。
仮説と結論部は「できるだけイメージと根拠の希薄な主観を排除した視点」で判断する必要があるだろう。
例えば「国家破産はない」と云う意見なら「大多数の国民が納得しパニックにならない」だけの「説得力のある意見提示が必要」という事も忘れてはいけない。
「一部の思考レベルに達している人だけには理解できる論理の提示」では駄目なのである。
実際に「世論形成をして、社会・世間で活動しているのは、思考レベルが一定レベルに達していない人も多い」のだろう。
仮に人口比で一定以上の人が「パニックに陥り、国債や貯蓄の取り付け騒ぎ」になれば「国家破産」は起こるだろう。
「Kすらも説得できない理論を語り、それが理解できないのは、Kの人間性の所為」として充分なのは「Kが人並みはずれて馬鹿」の場合だけである。
そんな点も考慮する必要はあるのではないだろうか?
相手に気付きを求めるための「過激表現」は許される場合もあるが、本人にではなく「観客者のイメージを形成するための過激表現」は反則と云えるだろう。後者は「誹謗中傷」の類に分類されるが、前者は「相手に向けられたアドバイス」と云う意味合いもあるのだろう。
同じ表現に見える事によって、一緒くたに評価するのは「間違い」なのかもしれない。
まあ、この辺も「分析レベル」の普遍化という問題とのバランスと云う部分もあり一概には論じられないのだろうが「規定化」すると危険だろう。
「思考停止」という表現を禁止(差別表現と認定)する事は必ずしも「正しい」とは言い切れないという部分である。
まあ、色々と難しいのだろうなと思う。