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国旗を掲揚したり、国旗を手に持つことには、その国の国民であるという意識を高め、国民を団結させ、連帯意識を高めさせるという効用があると思う。
一般的に、日本に住んでいる日本国籍をもつ人ならば、周りにいる日本人が自分と同じ日本人であることを、人に言われなくてもわかっているし、同じ日本人だ、という意識をもっている(在日外国人についてはここではおく)。つまり、連帯意識と呼べる意識は、国旗の有無に関わらず、最初から存在する。
この自然な認識以上の認識が果たして必要だろうか?
私は必要だとは思わない。
私からすれば、日本人が集っている場で日の丸を振るとか、日の丸を掲揚するという行為自体、そんなに日本人であることを日本人同士で互いに誇示してどうするの?という感じである。
他国との関わりがないところでは、一国のシンボルなど、不要である。
なくても、同じ日本人であることはわかっているからだ。
では、他国との関わりのある場ではどうだろう。
国際会議の場で、各国の国旗がはためいている場合がある。
その場合の国旗の意味は何だろうか。
私は、各国政府代表が国益のために行動していることを示すものだと思う。
つまり、国旗が象徴するのは、この場合、国益であるといっていいと思う。
国益と言っても、国民の利益であるとは限らない。
日米安保条約という「国益のため」とされるもののせいで国民の中には基地問題を抱えて苦しんでいる人だっているのである。あるいは、原子力発電も国益のためとされるが、今後放射能で国土や国民の人体が汚染されても国益のためと言っていられるのかどうか。国益などというのは国民の利益と決して合致しないのである。
一方、政治とは関係のない場で、外国人と仲良く話す時、自国の国旗を各自が手に持っている風景を想像してもらいたい。
おぞましいと思うのは私だけだろうか。
自分が何人であるというアイデンティティを捨て去れなどと言うつもりは全くない。
だが、人間として、外国人と話す場合には、自分が何人であるということから離れるべき時もある。お互いの国のことを話す場合であっても、客観的に自国を見つめたい場合には、国旗など手に持っていたら邪魔なだけである。
国旗というのは、それを持つもの、それを掲揚する者に呪縛をかけるものではないか、と私は思う。
その国から離れられない。
その国のために行動しなければならない。
そういう暗示をかけるもののような気がする。
つまり、国旗というものは、その国の国民であるということを意識させることから国民を象徴しているかのようにも思えてくるが、そうではなく、
何か国民の外にあるものを象徴しているのではないかと思う。
恐らくそれは国家というものである。
いわゆる「お国のため」の「お国」ではないか。
国旗が国民の外にあるものを象徴しているということの根拠の一つとして挙げられるのは、国旗に対し起立し、敬意を表する、という行動の存在である。それが常識的な儀礼であるとの見方もある。
もし国旗が国民を象徴しているのだとしたら、その同じ国民が国民に対し敬意を表するという行動は理解しがたい。自分で自分に対し敬意を表しているかのようだ。
それとも、国民の一人が、国民の全体に対して敬意を表する、という行為であり、当たり前なのだろうか?しかしもしそうとしても、全体主義的ではないだろうか。
やはり、国旗は国家を象徴していると思う。
とすると、国旗に向かって起立し、敬意を表するということはすなわち、国家に対し敬意を表するということである。
国家とは、統治の主体である。民主主義社会においては国民の代表とされているが、必ずしも国民の望むような政治は行わない。国民の総意に基づいて行動する存在でもない。国家はあくまでも国民の対概念であり、国民と同義ではない。
どういう時に国旗が振られるかを考えてみてほしい。
天皇がお目見えする時。
小泉が「行幸」する時(去年の9.11選挙時の風景)。
小泉が靖国に参拝した時。
である。
あるいは、戦争中、兵隊さんが出征する時である。
世界的なスポーツイベントの時に振られることもある。
つまり、何らかの国家的権威がそこにある時。
あるいは、戦意高揚のために、国旗が用いられる、ということである。
スポーツの場合は単に自国チームを応援したいだけと言えるかもしれないが、一歩間違うとナショナリズムの嵐を生むと思う。
戦争の場合とはまた違った「戦意」の高揚のつもりが、戦争になってしまうということも、可能性としては捨てきれない。実際、「1969年にはサッカーの試合からエルサルバドルとホンジュラスの中米二国間の本格的戦争にまで発展した」(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0111-3.htm;第2章第4節)ということもあったそうである。
「ナショナリズムとは本質的に連帯感をもって動員をはかるための手段として求められてきたのである。とすれば、日の丸・君が代を『軽く』捉えるとか『自発的』であるということは程度の問題であり、やはりサッカーを通じて『日本人』としての連帯感を現代の若者が求めているという現象に対しては注意を向けるべきであろう。」(同上、第3章より)
という指摘もある。
特に「ナショナリズムとは本質的に連帯感をもって動員をはかるための手段として求められてきた」との記述は、スポーツから離れて考えても注目に値する。
「連帯」がキーワードだ。
つまり、国旗に対し起立するなどして敬意を表するということは、国家的権威に対する忠誠を誓い、その国の国民としての連帯意識を高め、戦争に備えるという行為に限りなく近いのではないかと私は思うのである。
今は、平時であるから、そうは見えないかもしれない。
たかが国旗で戦争まで、と思われるかもしれない。
しかし、戦争が近づけば、国旗は間違いなく、戦意高揚のために使われるだろう。
国旗に対し敬意を表しない者は、非国民呼ばわりされるだろう。
戦争に対し異議を唱えることも、許されない雰囲気ができてしまっているだろう。
なにせ、神聖なる国旗のもとに戦うのである。
その国旗に対し異議を唱えることは、「神聖にして侵すべからざる」日本国家への冒涜行為とみなされても仕方がないのだ。
日の丸問題は、そういう状況を許すか許さないかという問題なのである。
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