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「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。(中略)自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。」(三島由紀夫「檄」より)
三島と「楯の会」(1968年10月5日結成)が自衛隊とどのような訓練を行い、どのようなクーデター計画を練っていたかは、元自衛隊陸将補・山本舜勝氏の証言(著書『自衛隊の「影の部隊」』講談社)で大部分が明らかになっている。山本氏は、当時、自衛隊調査学校に所属する現役自衛隊幹部であり、三島と楯の会を自衛隊を支援する民兵組織=不正規軍として養成すべく、主として諜報活動の技術を徹底的に教え込んでいた。つまり、楯の会の事実上の指導官であった。三島は1967年に「祖国防衛隊はなぜ必要か」というパンフレットを作り、不正規軍としての民兵の必要性を説いている。それに山本氏が共感し、二人の関係は始まっている。山本氏が指揮した楯の会の訓練内容は、都市ゲリラによる市街戦を想定した諜報活動で、実際に新左翼(全共闘)の街頭闘争に部隊を派遣し調査活動を行ってもいる。
新宿騒乱よく知られるように、三島は1969年の10.21国際反戦デーで、自衛隊の治安出動を待望していた。すなわち、全共闘のゲバルトが警察機動隊を完全に打ち負かし、治安維持が不可能になった時こそ千載一遇のチャンスがやってくると考えたのだ。その「期待」の根拠は前年の10.21国際反戦デー、すなわち「新宿騒乱事件」(写真上)にあったと思われる。当時のベトナム反戦を中心とする新左翼の街頭闘争は苛烈を極めた。68年の10.21国際反戦デーは、防衛庁突入(写真下)と新宿駅構内占拠(米タン=米軍用燃料タンク輸送阻止)が数万人規模の市民の合流によって行われ、東京で450名、全国で913名の史上最高の逮捕者を出している。この映像は映画『怒りようたえ』で見ることができる。ちなみに山本氏は交通と電力というライフラインが破壊されれば、首都機能はマヒしただろうと書いている。
防衛庁突入三島はこの日、御茶の水駅前の日本医科歯科大学構内で、学生と機動隊の白兵戦を催涙ガスで目を真っ赤に充血させながら目撃し銀座に移動、4丁目の交番の屋根によじ登って石が飛び交う市街戦を体をブルブル震わせて眺めていたという。
三島はこの1968.10.21体験を下に、翌年の10.21にかけて、楯の会決起の時を探っていた。69年は東大安田講堂の攻防(1.18〜19)を受けて、2月に「反革命宣言」を発表、5月に東大全共闘と討論、印税をすべて楯の会の活動費に当て、自衛隊幹部(調査学校校長・藤原岩市陸補ら)はもとより、自民党官房長官・保利茂や日経連会長・桜田武などと精力的に接触し、自衛隊の治安出動の可能性とその尖兵としての楯の会決起を模索していた。その頃すでに楯の会は100人に及ぶ組織になっていた。
三島はつねづね、楯の会は己の肉体を賭けて日本の伝統(天皇の国家)を守ることに使命があり、武器は日本刀だけでいいと語っていたという。すなわち、三島は決して楯の会の蜂起によって権力奪取をしようとしたのではない。むしろ、自衛隊が超法規的に治安出動し、「真の国軍」となる憲法改正への道を拓くための「決死隊」として位置づけていたと思う。三島は空想としてクーデター計画を練っていたわけではない。それは具体的に自衛隊幹部に示され、「共に起つ」ことを三島が要求してもいる。山本氏は、三島のクーデター計画をこう記述する。
「すなわち、十月二十一日、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令的状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。」(山本舜勝『自衛隊の「影の部隊」』講談社)
楯の会決起は、同時に三島らの自害切腹をあらかじめプログラミングしていたのである。左翼が皇居に突入せずとも、楯の会が皇居に突入し、天皇を防衛するという戦術も考えられていたようだ。そのために国立劇場を拠点とすることが構想されていた。しかし、当時の左翼は皇居に突入するはずもなく、またその闘いが議会制民主主義を超えて例えば国会占拠などによって一時的にせよ二重権力状態を創出するようなことが構想されていたのかさえ私にはよくわからない。いずれにせよ、闘いが生活の場から離れ、街頭での直接行動に特化していく過程で、その闘いはやがては終息せざるを得なかったと思う。つまり、政体が脅かされるような事態が起こりえたのか、三島は過剰に「期待」し過ぎたと言えないだろうか。
三島は、69年の10.21が、機動隊権力によって完全鎮圧されたのを絶望的な眼差しで振り返っている。逮捕者は全国で1505名を数え、史上最高となった。警察は前年よりさらに増強され、すでに下降曲線を描いていた全共闘運動のゲバルトが警察権力を粉砕するなど夢のまた夢ではなかったろうか。
「しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。」(三島由紀夫「檄」)
このように、自衛隊の治安出動による憲法改正が政治プログラムから外されたことを三島は痛苦の念をもって書き記している。これは、楯の会決起の時を失ったということであり、三島にとって死に場所を失ったということである。三島のクーデター計画に、自衛隊幹部は尻込みし、時期尚早を理由に参加することはなかった。三島はそこからもう一度死に赴こうとする。1970年11月25日の決起では、自衛隊員が自ら憲法改正を求めようとしているのかを問うてもいる。自衛隊市谷駐屯地での決起は、そこにしか残されていなかった三島の死に場所であった。
三島が想定した左翼の軍事行動は、69年に「前段階蜂起」を唱えた赤軍派が大菩薩峠での軍事訓練が発覚し、11月5日に53人が逮捕され、三島の死後72 年2月28日に連合赤軍として完全敗北していくのだった。三島がもっとも意識していたのが赤軍派で、その機関紙を読んでもいたようだ。極左も極右も熱に浮かされたように「東京戦争」を夢見ていたのだ。
註:「東京戦争」とは赤軍派が69年に唱えていたスローガン。大島渚の『東京戦争戦後秘話』はそこから取られている。
私は、三島がなぜ死ななければならなかったかを考え続けている。三島の求めた自衛隊の国軍化・憲法改正は、皮肉にも暴力的な治安出動ではなく、「国民保護」という欺瞞の名の下に現在進められようとしている。何よりも三島がもっとも嫌った外国軍の傭兵として自衛隊員の生命が政治家によって弄ばれようとしている。はたして「真の日本」などどこにあるのか、私は三島とはまったく違う場所から、国家と軍隊の問題を考えていきたい。三島の自死については、また別の角度から論じていきたい。
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