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(回答先: 聖書にこんな箇所があります 投稿者 真理を愛する者 日時 2006 年 8 月 22 日 15:23:51)
こんにちは 真理を愛する者さん。
小麦畑に雑草(毒麦)をまき足すことは、中東では珍しくない悪意に満ちた行為なのだそうです。
イスラエルは農耕社会でしたから、この話しは一般の民衆にとって身近なたとえとして理解できた
ことでしょう。
ここで、敵がまき足していった植物は、有毒な、ドクムギ(Lolium temulentum)を指すというのが
通説であり、一般にその毒性は種子の内部で生長する菌類から発生すると考えられています。
ドクムギは十分に発育を遂げるまで、小麦そっくりの外見をしていますが、その後は容易に見分ける
ことができるそうです。食べると、めまいがし、特定の状況のもとでは死ぬこともあるといいます。
それらの雑草の根は小麦の根に絡みやすいため、見分けがつくとしても、収穫の前に、ドクムギを
根こぎにすると、小麦が被害を受けることになりました。
さて、たとえの意味は置いておいて、イエスはこの話しに限らず、たとえを用いた話しを多くされま
した。聖書には、「実際、例えを用いないでは話そうとされなかった。」(マルコ 4:34)と書かれて
います。イエスの話しを聴きに来る聴衆は、農民や漁師などの高等教育を受けていない無学な人たちが
大勢いました。そうした人々に、霊的な事柄、神の道や考えを理解させるのに、日常の出来事や人生の
諸事などのたとえを用いた説明は、理解しやすいものだったと思います。
またイエスのたとえ話のあるものは、関心のある人と無関心な人あるいは神の預言者イエスに敵対さえ
する人がそれぞれ本心を明らかにするように仕向ける働きもしました。ある時イエスは、ご自分がこの
ように人に語ったのは、彼らが「聞いていても…その意味を悟ることもない」ためであると言われまし
た。(マタイ 13:10‐15)こうしてたとえ話は、イエスの音信を理解する気のない人々を“えり分けて
除く”働きをしました。彼らは真実に関心を抱いた人々とは異なり、イエスのもとに来て説明を求めよ
うとはしなかったからです。―マタイ 13:36。
さらに重要なことに、たとえ話は、弟子たちの中から偽善的な者、分派や分裂をひき起こす者を閉め出
すことによって真の弟子を助けました。たとえ話を聞いた時に人々は“本性を現わす”傾向がありまし
た。「わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は永遠の命を持」つと、イエスが言われた時、「弟子の
うちの多くの者が後ろのものに戻って行き、もはや彼とともに歩もうとはしなかった」のです。他方、
イエスの真の弟子はイエスにつき従い、この言葉の持つ、命を与える意義を理解するようになりました。―ヨハネ 6:54、60‐66。
聖書のたとえを単に表面的な理解で満足したり、あるいは退けるとしたなら残念なことです。たとえの
背後にある考えや事柄を理解することによって本当の益が得られるでしょう。