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依存症の独り言
気まぐれに時事問題を語る。
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html
やはりねつ造だった「天皇発言」
富田朝彦・元宮内庁長官(故人)が残していたとされる、「昭和天皇のご発言メモ」に
関しては、どうやら「故・徳川義寛侍従長のメモだった」というのが真相のようだ。
この情報は、昨日の午前3時の時点で、「正成」と名乗る読者の方がカキコされていたのだが、ソースが明記されていなかったので取り上げなかった。
が、別の方から、午後になってソースが明示された情報が送られてきた。
このソースは、証拠写真付きだから間違いないと思う。
朝のサンデープロジェクトで、加藤紘一氏や菅直人氏が、メモが真実であるという前提で「天皇のご意向を無視できない」とか、あれこれ言っていたが、どう釈明するのだろう。
以下に、証拠写真を掲載する。日本経済新聞で公表されたメモの裏面である。
富田・元宮内庁長官のメモ裏面
63.4.28 [■]
☆Pressの会見
[1] 昨年は
(1) 高松薨去間もないときで
心も重かった
(2) メモで返答したのでつく
していたと思う
(3) 4.29に吐瀉したが その前で
やはり体調が充分でなかった
それで長官に今年はの記者
印象があったのであろう
=(2)については記者も申して
おりました
[2] 戦争の感想を問われ
嫌な気持を表現したが
それは後で云いたい
そして戦後国民が努力して
平和の確立につとめてくれた
ことを云いたかった
"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長
の靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである
富田・元宮内庁長官のメモ表面
4.28 [4]
前にあったね どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったか
藤尾(文相)の発言。
=奧野は藤尾と違うと思うが
バランス感覚のことと思う
単純な復古ではないとも。
私は 或る時に、A級が
合祀され その上松岡、白取
までもが、
筑波は慎重に対処して
くれたと聞いたが
〇 松平の子の今の宮司がどう考
余そ えたのか 易々と
り う 松平は平和に強い考が
閣で あったと思うのに 親の心子知
僚す らずと思っている
も が だから 私あれ以来参拝
知か していない。それが私の心だ
ら多
すい
・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意
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もう、お読みになればお解りだと思う。
日本経済新聞がスクープしたメモには、前段があったのである。それは公表されたメモの裏側に書かれていた。
なぜ、[1][2]と来て[4]に飛んでいるのかは分らない。ただ、文意は[1][2][4]と連続して
いるので、[3]を抜かしただけだろう。
まず言えるのは、これは昭和天皇の発言を記したメモではない。記者会見を開き、記者から「戦争の感想を問われ」るような身分の人物のものである。
そしてメモは、そのときの記者会見の内容を控えたものだ。
以下は、私のエントリーに最初に情報をカキコしてくれた「正成」さんの分析である。
1.メモはプレスの会見を筆記したものである。
2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。
3.質問に対する答えは率直な感想を述べているように読み取れる。発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。
4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく 、仕える立場の
人物の発言と読み取れる。
5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。
6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。
7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。
9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が
判る。
以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川侍従長である
事は明白です。
理由は以下の通りです。
a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)
b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。
c.前出の1〜9の指摘事項に全てあてはまる。
では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。
イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。
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まさに的確な指摘だと思う。付け加えるとすれば、富田氏を「長官」と呼ぶ立場の人物でもある。
やはり、「ある政治的な意図を持った陰謀」だったのである。
この陰謀が、安倍晋三官房長官を狙ったものかどうかは分らない。が、少なくとも、靖国神社参拝を肯定する政治家、特に総理大臣か、それ以上に「次の総理大臣」を牽制する意図を持ったものであることは間違いない。
一体、誰が仕掛けたのか?
煙たい政治家のスキャンダルをデッチあげてメディアに流すのは、北朝鮮=朝鮮総連の常套手段だが、さすがに今回は関係がない。
考えられるのは、富田・元宮内庁長官のメモ(手帳)が手に入る立場にあり、首相の
靖国参拝反対派で、かつ親中国派の人物である。
富田氏の経歴と人脈を考えれば、そのような立場にありうる人物は、大体の想像は
つく。が、確証がないので、ここでは明らかにできない。
ところで私は、前回のエントリーの【追記】で以下のように書いた。
↓
今日の昼の報道番組(テレビ朝日だったと思う)に、東条英機元首相の孫と皇室記者としての経歴が長い神田秀一氏が出演していた。(録画だと思う)
東条元首相の孫である由布子さんは、メモはねつ造だとして上で、「処刑後、毎年
お遣いの方が来られて『ご下賜』をいただいていた。『遺族の者たちは皆、元気にしているだろうか』と、ご心配をいただいた。そんな陛下が、ああいうことを仰るとは思えない」と述べていた。(以下略)
と・・・
やはり、事実を前にすれば、ねつ造はすぐに破綻するのである。
なお、この糊付けされた、もう一方の面の解読が達成されたのは、オーマイニュース
編集長の鳥越俊太郎氏によれば、「ゴミ貯の2ch有志による地を這うようなローラー
作戦の結果」だそうである。
改めて、ネットの威力に感服した。
「富田メモ」を、検証することなく仰々しく取りあげたメディアや政治利用した政治家は、頭をまるめろ!!!
天皇陛下の発言をねつ造した、不敬の輩を激しく糾弾する!!!
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「奥野国土庁長の靖国発言」とは、1983年の奥野誠亮氏による「国家社会の代表が、代表として(靖国神社を)お参りできないようでは、将来、事があった場合どうなるのか」という発言を指すと思われる。
この奥野氏、87年(竹下内閣)の国土庁長官時代には「私は侵略という言葉を使うのは、たいへん嫌いだ。あの当時、日本にはそういう意図はなかった」とも発言しており、なかなかの硬骨漢だった。
従軍慰安婦問題でも「従軍慰安婦は商行為」と発言し、積極的に反対論を展開した。
「中曽根の靖国参拝」とは、当時の中曽根康弘首相による、1985年8月15日の靖国
神社公式参拝を指すと思われる。
このとき、野党や中国が猛反発した。その結果、中曽根氏は86年から参拝を中止。
以後、首相による靖国参拝を自粛するのが、当たり前になった。
「藤尾(文相)の発言」とは、1986年(中曽根内閣)の藤尾正行文部大臣によるの「日韓併合は当時の両国代表の合意に基づいて行われた。韓国側にもいくらかの責任は
ある」を指すと思われる。
藤尾氏は、韓国の猛抗議を受けた中曽根首相の辞職要求を拒否し、結局罷免された。
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【追記】
これは、「うひゃ、こんなことになっておるのか」からの引用だが、「昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記」には、以下のくだりがあるという。
↓
昭和の最後の2年間、私は宮内庁を担当していました。昭和天皇について知りたいことはたくさんありましたが、その一つは、なぜ1975年11月を最後に靖国神社へ行かなく
なったのか、ということです。この問いに答えられる人は天皇の側近である徳川義寛・侍従長しかいません。何日も朝駆けし、出勤途中を待ちかまえて尋ねました。徳川侍従長は口が堅く、ほとんど無言の行でしたが、A級戦犯合祀と関係があるらしいこと、徳川侍従長も合祀に批判的だったことは分かりました。
後に侍従長を退いてから同僚の記者が取材した証言録によると、以下のような経緯でした。――靖国神社の合祀者名簿は例年、10月に神社が出してくるが、1978年は遅れて11月に出してきて、A級戦犯を合祀したいという。その10年ほど前に総代会はA級戦犯を合祀する方針を決めていたが、旧皇族である宮司の筑波藤麿さんが先延ばししてきたのに、宮司が代わると間もなく合祀を実施した。徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。
「靖国神社は元来、国を安らかにするために奮戦して亡くなった人をまつるはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も一緒に合祀するのは異論も出るでしょう」「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、徳川氏は語っています。
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「富田メモ」とほぼ同じ内容が書かれている。
【追記2】
「松平の子」と記者会見で名指しされた松平永芳氏が、靖国神社宮司をお辞めになったのは1992年(平成4年)のことです。
1988年に天皇陛下から
「松平の子の今の宮司がどう考
えたのか 易々と
松平は平和に強い考が
あったと思うのに 親の心子知
らずと思っている」
と記者会見で非難されたら、即刻辞職するでしょう。
また、陛下が記者会見で「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と仰せになられたとしたら、それこそ当時のメディアが、今以上に大騒ぎしたことでしょう。
これを見ても、「私は=昭和天皇」でないことは明らかです。
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