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世代間の対話拒否という現象は大昔からあるそうである。
「今時の若いモンは・・・」という語句は相当昔からあったらしい。
「新人類」「宇宙人」に対し「頭が固い」「頑固で人の話を聞こうとしない」というような世代間の価値観の差は対話にとって非常に障害となっているのだろう。
知恵という物を考えた場合、体験学習の期間が長い分だけ「歳を重ねた人の方が有利」である。もっとも「ビールを飲みながら野球を見ている」のが人生の楽しみという人だって多いので、あくまで比率問題であり、年の功が全てではないだろう。
柔軟性があり、自由な発想力があるというような意味では若者の方が有利である。まあ、この辺も「潜在能力をオタク趣味に全部投入」という自由に集中させてしまえば、それまで、と言う部分もあるだろう。
「価値観の摺り合わせ」という意味では「対話能力」というのが非常に重要である。特に重要なのが「相手の主張を良く聞き、理解した上で消化できる能力」だと言われている。
Kは最近の人は「老若男女問わずに、対話能力が低下している」という気がしている。
「自己アピールの為の表現力」は高まっているような気がするが、その反面で「相手の言いたい事を聞く能力は低下している」という意味である。
Kは時々「言語変換能力」という表現を使用するが、「自分の言葉で自分の脳内の結論を表現した場合」には相手には伝わりにくい。これは「小難しい論文を英語で話されたって日本人では理解しにくい」というのと同じである。「自分語を相手語に翻訳し、自分用の専門的用語を他人が理解出来る表現に変換」してやってはじめて「相手が聞く耳を持ってくれる」のだろうと思う。
国会答弁などを聞いていると「ああ言えば、こう言う」的な並行論が延々と続いている時がある。相当共に「自分の言いたい事のみを叫び、相手の意見には聞く耳を持たない」というアジ演説大会である。
多分であるが「あれを見て育った若者」は良い子には育たないだろう。
相手の主張には始めから「価値観が違う」というバリヤーを張って耳を閉ざし、ディベート技術のみが進歩していくだろうと思う。
対話でも論議でもなく、「自分の言いたい事を叫ぶだけ」が日本の最高機関(国会)の会議である。
自分の価値観を相手に押しつける。というのは最大の愚行であり犯罪行為なのだろうと思う。相手の人権無視であるし、比較検討、再検証という部分が端から考えられていないのである。相手を「自分と同等の思考能力を有した人格」と思ったら、一方的な価値観の押しつけという行為にはならないだろうから、行為を行った段階で「相手を見下している」のであるし、その事は同時に「相手の意見から、新たな発見をする」というチャンスも失っているという損失も生み出しているのである。
対話能力を高めていく事で、色々な面で良い事があるのだろうと思う。
多数派形成の着地点を模索する場合には「大同小異で協力出来る地点」の見極めが不可欠であるが、対話能力が不足しているので「小異に拘って、分裂してしまう」事になる。
それが、結果的には巨悪を助ける事になる。
困ったものである。