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(回答先: 形而上的というのは、実はあなたのことではないのか? 投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 29 日 00:25:27)
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>それは論理構成上の言い回しでしかない。「主体」や「自己」を辞書に書いてあるようにただ説明したに過ぎない。もちろん「主体であり、自己だと認識している」というその認識している者が自己(私)であり、こうやってその事を書いている者が自己(私)であり、その書いている者を観ている者が自己(私)であり・・・と、ただ続くだけだ。
“もちろん”以下の部分は辞書のどこにも書いてねえと思うがなあ。“・・・と”続けてんなあオメエさんだろ。辞書のせいにしちゃいけねえよ。
>私の持っている辞書では、「主体とは行為・作用を他に及ぼすもの」となっている。つまり行為・作用を及ぼすものであって、及ぼされるものではない。つまり、知られるものでもなく、認識されるものでもなく、その知る者であり、認識する者だということだ。
ただ主体は、認識されれば主体ではなく客体でしかない。つまり主体を「認識する者」や「行為する者」と言う事自体、言葉によって客体化することで矛盾するものにしかならない。
辞書ってなあ言葉が使われる時の基本的な意味や用法を並べたもんよ。その基本的な意味を敷衍し新たに何かを引き出すとすりゃ、その何かについての責任を負うのは辞書じゃねえ。引き出したご当人よ。
上のオメエさんの文で、“ただ主体は”以下の部分は辞書にゃ書いてねえだろう。辞書に書いてある事を元にオメエさんが考えた事よ。だったら、その内容の責任もオメエさんのもんよ。辞書を持ち出しての責任逃れはみっともねえぜ。
その上、オメエさん自身が辞書の内容を批判してるじゃねえか。“主体を「認識する者」や「行為する者」と言う事自体、言葉によって客体化することで矛盾するものにしかならない。”ってこたあ、オメエさんの持ってる辞書にあった「主体とは行為・作用を他に及ぼすもの」ってのも矛盾でしかねえんだよな。
>だからそこを省いて、主体は知られるものでも、認識されるものでもないという言い回しを主にしているだけだ。さらには「主体」という言葉で言い表すことも、言葉によって客体化することで矛盾したものとなる。ただ、議論に於いては言い表さなければ伝わらないだろう。それは矛盾した表現方法だが、言葉による議論というのはそういうものだと思っている。
今度は言葉の所為かい。“それは矛盾した表現方法だが”仕方がねえ訳だ。“〜という言い回しを主にしているだけ”なんだから、あんまり気にすんなってことかい。“言葉による議論というのはそういうものだ”って仰るんだな。
ハッキリ言って話になんねえなあ。言葉が“言い回し”に過ぎねえんだったら、今までの対話もオフザケ程度のもんってことになんのかい。ヤレヤレ・・・。
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>作用があるから気付くという意味において書いたつもりはない。「気付く」そのものが作用だということ。
ここで話す趣旨は、“気付く”という作用が無ければ客体に“気付く”ことは決してできないということだ。客体単独でどうするのか?“観る”ことも“感じる” ことも無くてどうそれが存在していると言えるのか?ということだけだ。
オメエさんの言いてえこたあ分かってるよ。作用と客体を分離してえだけさ。どうやったらそれが分離できるのか、その手続きにゃお構いなしよ。
“気付く”ってなあ何かに気づくってことよ。気づくこととその何かはまだ区別されてねえんだよ。それが区別できんのは、気付くことに気付いた後だよ。気付くことに気付いて初めて、気付くこととその何かが区別出来んだよ。その区別が出来た後、作用だの客体だのって話が始まるんじゃねえかい。
>客体が形而下であるとするには、観られなければならないし、知られなければならない。そもそも形而下というのは、時間・空間の中に形を取るという、記憶することと観ることという作用を前提にしたものでしかない。
オメエさんか前提にしたがってるだけだよ。そもそも観るとか知るってなあどういう事なのかを考えてるはずだったぜ。認識の論理的なプロセスを考えることで作用だの客体だのが少しずつ見えてくるんじゃねえのかい
>あなたの語っている段階では、“客体に気付いた”とも言えないだろう。“気付いた”というのが、既に「気付くではない」という作用を知っていることを意味する。また、“対象(客体)”とも言うこともできないだろう。それは対象(客体)以外のものを知っていることになる。
客体に気付いたなんて言った覚えはねえよ。オメエさんが勝手にそう言ってるだけよ。オメエさんってお人は、主体-客体以外は理解不能みてえだなあ。
ついでに言っとくが、“気付いた”というのが、既に「気付くではない」という作用を知っていることを意味したりゃしねえし、“対象(客体)”と言うことが対象(客体)以外のものを知っていることにもならねえよ。酒を飲みてえって言う野郎が、酒を飲みたくねえってことを知ってるたあ限らねえようにな。
>どちらにせよ、それは表現できないことで、気付くことでもないし、認識することでもないし、知ることでもないし、形があるとすることでもないし、つまり思考と認識を使っては、知り得ない形而上的議論にしかならないだろう。
思考と認識ってなあオメエさんの考えてるような狭苦しいもんじゃねえよ。何しろ、知り得ない形而上的議論だってやろうと思やあ出来るぐれえなんだぜ。その上、そんな議論は不毛だから止めた方がイイってえ判断だって出来るんだ。舐めちゃあいけねえよ。
表現できなくても経験は出来るし、経験を反省し何かを掴むことは出来るし、掴んだものを整理して再構成し言語化することも出来る。そうして出来上がったのが認識ってんじゃねえかい。知るとは何か、観るとは何か、そう簡単なこっちゃねえよ。
オメエさんの話は、全てが出来上がった後の、しかも、何とか作り上げた認識をそのまま事実と思い込んだ子供みてえな議論よ。形而上的って言われたもんで、その言葉をそのまま相手にぶつけるなんてえとこも子供だぜ。
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>私はただ、主体が無いの“なら”客体も無いとしているだけだ。これは、「客体(対象・内容)に気付くには、客体でないものからの視点(主体)が必要」というように、それは客体の成立要件として話しているだけだ。
な〜んだ。成立要件だったのかい。そうだよなあ、論理構成だったもんなあ。オメエさんの頭ん中に成立した構築物なんだから、ソレに合わせた議論でねえとオメエさんの頭は受け付けねえんだよなあ。こいつぁオイラが悪かった。
じゃあ、こう言い直そう。オメエさんの言うとおり客体も無いのさ。そいつぁ客体じゃねえんだ。意識内容や対象的存在ってなあ客体じゃなくて意識や思考の産物なのよ。もちろん、産物っつってもいい加減な想像じゃねえよ。経験から生まれるもんよ。意識内容ってえぐれえだから、コイツが客体じゃねえってなあ特に説明も要るまいよ。経験に基づいて作られたイメージ(像)よ。
分かり難いなあ対象的存在だよな。こいつぁ思考の産物よ。但し、意識内容に基づく思考の産物ってことよ。意識内容ってなあ決して単一で瞬間的なもんじゃねえ。そういう面も無いわけじゃねえがそれだけじゃねえ。早え話が様々な内容を含んでるってことよ。で、その様々な内容から、そうした意識内容をもたらしたものが意識とは別に存在していると考え付くのさ。ソレが対象的存在よ。
すげえじゃねえか。で、その存在を確かめようと、赤ん坊なら手を伸ばすだろうよ。対象物に触ることで新たな意識内容がもたらされる。対象的存在を確認する。しかし、そうは言っても、対象物の全てを把握したわけじゃねえ。おそらくソコに在るんだろうって思うぐれえさ。全貌は依然として謎のままってことよ。ココまで来て初めて客体が見出されたってことになるんじゃねえかい。
>また、これは主体が形而上か、形而下かなど関係の無いことだ。
もちろん関係ねえよ。主体-客体関係をオメエさんが捻りまわして作り出した形而上的主体(自己)とは何の関係もねえよ。
>その成立要件を無視して、客体だけで成立するとするのは、「死に気付いた」「無に気付いた」ということと同じで馬鹿げたことだと思っているだけだ。全てが「無」なのに何故「無」と気付く?全てが「有」なのに何故「有」と気付く?全てが「形而上」なのに何故「形而上」と気付く?全てが「対象」なのに何故「対象」と気付く?・・・それは反対のものがあって初めて気付くことができるのだ。
それは相対的なことの成立条件だ。
オメエさんの言い方だと、生に気付くにゃ死を知ってなきゃいけなくなるよなあ。まだ死を知らねえのに、生を知ってるって言っちゃあ間違いになるんだな。しかし、死に気付くにゃ生を知らなきゃいけないんだよなあ。一体どっちが先なんだい。そうか、両方一度に知るしかねえんだ。片っぽだけじゃいけねえんだな。何しろ、相対的なことの成立条件だからなあ。
>生が成立するには死が必要なように、有が成立するには無が必要なように、形而上が成立するには形而下が必要なように・・・。
これを言うことは形而上的だろうか?
そんなこたあねえよ。観念的なだけよ。
>あなたは私を形而上的と言うが、あなたは形而上を知っているのか?それは決して知られるものでも観られるものでもない。しかしあなたは形而上という言葉を使う。あたかも形而上というものがあるかのようにその言葉を形而下と対比させて使う。そんなあなたは形而上的なのか?
オイラは形而上を知ってるさ。知らなきゃその言葉は使えねえだろう。オメエさんの真似して辞書を引用しようかな。オイラの辞書にはこう書いてあるぜ。「時間・空間を超越して、感覚を通してでは存在を知ることのできないもの。」
オメエさんは、形而上ってえ言葉を使う者は形而上的だって言いてえようだが、そうなると辞書を書いたお人も形而上的ってことになるのかい。ソコまで言うつもりはねえんだろ。そうだよなあ。言葉とその意味を知っていることが、言葉の意味する事柄の実在性を信じていることにゃあ繋がらねえからな。
同じように、形而上って言葉とその意味を知ってその言葉を使うオイラは、言葉の意味する形而上的存在の実在性を信じてなんかいねえし、そんな主張をしてもいねえ。そんなオイラのどこが形而上的なのかねえ。
>あなたの意図する形而上的とは、「いわゆる形而上的議論が始まるわけだ」「形而上的議論を避けながら」「形而上的議論のどこが悪いって」という個所から、形而上的議論をする人ということだと把握している。
オメエさんの読解力にゃ感心するよ。“決して知られるものでも観られるものでもない”ってえオメエさんの表現を根拠にして、オイラは形而上的ってえ言葉を使ったつもりだがなあ。オメエさんがその表現で言い表そうとしていたなあ客体化出来ねえ主体(自己)じゃなかったかい。ソレを形而上的だって言ったのさ。
そんな議論をしているオメエさん自身を形而上的であるなんて思っちゃいねえよ。少なくともオイラの方はな。思ってるとすりゃオメエさんの方だろうぜ。自己について“決して知られるものでも観られるものでもない”なんてことを仰るんだからな。
>それは、あたかも形而上なものを知っているかのように議論したり、それが存在しているとした根拠で議論をしたりする人のことを表現したものだと把握している。私は、主体や形而上や自己等を知っているとは書いてはいないし、存在しているとした根拠でこれらを書いてはいない。
よく言うぜ。じゃあ一体何を書いて来たんだい。自分の投稿をもう一遍読み直してみなよ。
>もちろん私は、自己であり、主体であると主張している。そういう意味においては私とは形而上的なのではなく、形而上そのものだろう。しかし私は、形而上なものは知らないし、自己を知らないし、主体を知らない(これは意味を知らないということではない)。だから、それは否定でしか言い表すことしかできない。それは観られるものでも、知られるものでもない。それは例えば、死を「生ではないもの」、無を「有ではないもの」として表現するようなものだ。「死」と「無」というものの言語的意味と、その表現方法は知っているが、決して私は「死」も「無」も知らない。
要するにオメエさんの頭ん中あ混乱してんのさ。“否定でしか言い表すことしかできない”モノについて考え始めたら訳が分かんなくなっちまったのさ。オメエさんに限ったこっちゃねえよ。形而上的なものについての議論ってなあそうなっちまうのよ。だから、そうなるのを避ける為に形而上的議論はやらねえことになってんのよ。
“「死」も「無」も知らない”くせに“「死」と「無」というものの言語的意味と、その表現方法は知っている”なんてえ言い逃れをするハメになっちまうのよ。結局、観念をいじくり回してるだけってことになるのさ。
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>「主体-作用-客体」持ち込まなければ、実にあやふやな討論に終わることだろう。寧ろ討論もせず無言の方がどれだけ“それ”を表現できたことか。言葉というものはそうしたものだと思っている。
そう思っていなさる御方が何で掲示板に投稿なんかなさるのかねえ。
それに、あやふやな討論に終わらねえ為か何か知らねえが、あらかじめ勝手に公式を決めて懸かるってなあ対話のやり方じゃねえよなあ。オメエさんの頭ん中の都合に突き合わされちゃ叶わねえや。
「主体-作用-客体」こそが、オメエさんの本当の関心事なんだろうなあ。その公式でモノゴトを割り切っちまいてえ理由が何かおありなんだろうよ。
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