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自分自身、「幸せ」とか「愛」という言葉の使い方がうまくない。
自分が縁ないものとして意識的に考えないようにしてきたのかもしれない。
自分自身としては、それらの語彙よりも「生きる喜び」という言葉が好きだ。
幸せとか、愛という言葉に、西洋的なものを感じる。
慈悲、慈愛、という言葉が,自分にはフィットする。
一日一日、単純である、これで一生終わるのかと思うと、ため息が出てしまうと同時に、一日が無事に終わった喜びがある。人の生にはこの二面性がしばしば顔を出す。
ついでだが、無事に終わることが当たり前だと思っているほど自分は傲慢ではない。今日、一日生き延びたのが勿怪の幸いだと思ってる。
ここに、自分には「感謝」という気持ちが湧く、誰に感謝するかは、それぞれ読み手にお任せする。
あるいは、それを「統計確率」の問題にするひともいるだろう。
ある知り合いの精力的なセールスマン、心臓をやられ、緊急手術をしたと聞かされた。退院後、脂気の取れたかを見たとき、入院中の話しを聞かされた。
手術後初めての歩行訓練のとき、一歩、一歩足を前に動かすたびに涙があふれて止まらなかったという。その「一歩」が何十秒かかったか知れない。
その一歩一歩が彼の生への実感、生きる喜びをを涙で表現したのだろう。
自分が、「生きる喜び」を感じるのは、波形を形成する人生の中、底(最小値)から最大値にむけて、上昇する線の中、悪かった調子が良くなる、機嫌が良くなる、病気が治る、その曲線の中に、生きる意味、生きる喜びを感じる。
上昇の角度、頻度、そして、持続時間は問わない。
そして、共に、生きるものとして、人と人とのふれあいを感じたとき、
文化的活動、スポーツ、自然の中に身をおいて、心に風が吹くようなとき、、
たいていは事後的ではあるが、生きる喜びを感じる。
そしてそれは、生きる中の所々にが隠されているはずである、そんなものを期待しながら、一日一日過ごしているのだと思う。
こういう世の中、「気分のデフォルト値」は多少鬱的であるのはやむをえないかもしれない。
今日は、PHP的だなあ。。