★阿修羅♪ > 雑談専用19 > 199.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 暴力と所有 『天蓬元帥さんへ』 投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 12 日 02:45:32)
***************
つまりそれは、自己の不在によって達成されるものだろうし、達成者すらも不在であるため、達成されるものではないのだろう。結果的には主体だのと言わないようにするのではなく、言えないということなのだろうし、言えないということも起こらないというとこだろう・・・。
***************
涅槃寂静ってなあお釈迦様のお説きになったモンで、オイラなんぞがアレコレ言うこっちゃねえやな。オイラが何か言うとすりゃあ、そうさなあ、生きてるオレっちのことぐれえかなあ。
生きてるオレっちってえのは、目に見えるこの体とそん中で起こってるアレコレだけじゃねえような気がすんだよなあ。そっからはみ出す部分ってのが有るんじゃねえかってことよ。そのはみ出す部分をねえことにしちまったおかげで、なんだか収まりが悪くなりやがっったんじゃねえかなあ。
悪くなった収まりゃあ何とかしなくちゃいけねえもんで、現に存在する以上の何かってヤツをひねり出したってえのが超越ってこっちゃねえのかなあ。人間が人間として収まりを着けようってんで、超越性をでっち上げたのよ。
おかげで、テメエん中に超越性を探し回ることになっちまったってわけだが、もちろん、そんなもんいくら探したってありゃしねえさ。で、どうせでっち上げなんだから適当に誤魔化しとけってんで所有ってのを思い付いたんじゃねえかな。
所有ってことがあるんだから所有者ってもんが居る筈だってえ理屈よ。じゃあどこに所有ってことがあるのかってわけで所有の仕組みが必要になっちまったんだろうよ。所有制度の構築だよな。だから、所有が無くなれば所有者も無くなり超越的自己も無くなっちまうって成り行きよ。
++++++++++++++++
自分の肉体も、ある意味に於いては所有と言っていいかもしれないし、生きる為に肉や野菜などの食物を体内に取り入れること、或いは呼吸することでさえも、所有と呼ぶこともできるだろう。それを暴力と呼ぶことさえも可能だろう。
+++++++++++++++
肉体を所有してんのか逆に所有されてんのか、結構難しいんじゃねえのかなあ。呼吸ってなあ呼気と吸気の繰り返しじゃねえのかい。息を吸うのが所有ってんなら、息をはくなあ所有の放棄ってことにならねえかい。食物も取り入れる一方じゃねえよなあ。糞や尿だけじゃねえで熱だのエネルギーだのって撒き散らしてんだろ。
暴力ってなあ、暴の力だよな。つまり度を越えた力だあな。どの辺に線引くのかって話だろうぜ。
===================
なぜ人は執着するのだろうかと考える時、それは死からの逃避、つまり自己や自己と同一化されたものの死(無)から逃れようとする衝動だとも考えられる。そして自己がある限り、この衝動からは逃れる事はできないと思う。
===================
自己がある限り、そうだよな、自己がある限りだよな。で、自己ってなあ有るのかねえ。死(無)に怯える自己ってなあ、死(無)を抱え込んでる自己だよな。何でそんなもんを抱え込んじまったのかねえ。テメエの存在が絵空事だからってえのが種明かしじゃねえのかなあ。
絵空事じゃねえ本もんの自己ってのを探そうじゃねえか。