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以下はワヤクチャさんの
「いかに生きるべきか?」(http://www.asyura2.com/0601/idletalk18/msg/501.html)
という投稿へのレスとして考えていた文章ですが、途中からちょっと趣旨が外れたので、新規投稿させていただきます。
私は、宗教には権力志向があると思います。
「開祖」にはそんな気はなかったとしても、ある程度信者が増えてくると、カルト集団にもなり得ますし、カルト集団にならなかったとしても信者からお金をとって生計を立てることの方が優先されてしまったりもするでしょう。人が集まる、それによって権力を手にし、儲けて行く。それが宗教です。
この点が、同じように「いかに生きるべきか」を考えることもある哲学との大きな違いだろうと思います。
一人で宗教心を持って生活している分には問題はないかもしれませんが、それが集団になると、単なるイデオロギー集団よりもタチが悪いと思います。
宗派間、宗教間の争いがそれをよく証明していると思います。
イデオロギー闘争での殺し合いよりも、宗教の絡んだ争いでの殺し合いの方が歴史的に見ても圧倒的に多いですよね。
魔女刈りなんかも、時の宗教が、違った考えの者を悪魔視したことから行われたことでしょう。
宗教から生き方を学びたいと思う人はそうすればいいと思いますし、ある宗教の教えに出会うことで生き方が変わった、なんてこともあるかもしれません。
しかし、宗教がかった考えは、他人に押し付けてはいけないものだと思います。
宗教の教義の押し付けは、個々人の価値観を押し付けるよりもタチが悪いと思います。
なぜなら、宗教というのは、ある意味、権威を持っているからです。
ある「聖人」が説いたことに意見すると、自分が悪人であるかのような気にさせられます。「聖人」とされている人にしても同じ人間なのであって、その人が絶対の善であるという保証などどこにもありません。しかし、それでも、宗教の教えはどこか絶対視されていると思います。
絶対のものなど、人間界にはないと思います。
それなのに、あたかも絶対のものであるかのような気にさせる。
そういう効果も宗教は持っています。
宗教が危険だというのはそういう面もあるのではないかと思います。
まとまりのない文章で申し訳ありません。
いずれにせよ、たとえすべての人が宗教の精神を学んだり、あるいは宗教に関係なく「いかに生きるべきか」を考えたとしても、社会は変わらないだろうと思っています。
人の心よりもシステムの方が問題だと思うからです。
これについてはhttp://ameblo.jp/warm-heart/entry-10014371417.htmlも参照していただければ幸いです。隼さんという方が、日銀福井総裁問題について、「今回の闇の部分が解明されても多分何も解決しないような気がします」と、持論を展開してくださったものへのコメントとして書いた文章です。
一部抜粋・紹介します。
(略)
何でも、努力すればいいってもんじゃないですね。
一生懸命に生きている人がいい人間か、というとそうとは限りません。
例えば、いかにして盗みを働くかの技術の習得に日々励んでいる人はいい人とは言えません。
ただ、今の社会の仕組みが人(や自然)の不幸をもとに成り立っており(南北問題など)、人を踏みつけにすると儲かる(日銀の量的緩和政策により大企業と銀行は潤い庶民は苦しんだ、また、アジア通貨危機での投機家の例など)ようになっていること、
そして、そういうことをしたくない人でも、それを末端で支えるしか生きていくすべがないこと(http://asyura2.com/0601/dispute23/msg/375.html参)を考えると、
本当の意味でよい稼ぎ方をするのはなかなか難しいと思います。
>そしてこれは全ての人の心の問題でもある。利己的部分がこれを生み出しているのです。
心の問題では片付けられないと感じます。
利己心をなくそうといっても生計を立てられないようでは困ります。
また、儲けられるシステムが目の前にあったら、そして、それが別に犯罪ではないのなら、普通の人ならそのシステムを使って儲けようとしてしまうでしょう。
そのシステムを生み出した人間の心の問題が根源にあるのは確かでしょうが、道徳心だけで行動を制御することは難しいですから、心の問題だと一般的に言ってしまうと、問題は解決できないと思います。
問題は、システムにあります。
私は国際金融家がその総元締めをしているようだと思い始めていますが、その総元締めが潤う仕組みを解体し、新たに、資源とお金を一定の地域内で循環させるシステムを構築することができれば、格差問題、環境問題などは全部解決するのではないかと夢想しています。