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僕は宗教との葛藤はあっていいと思う、好き嫌いはその後でもいいとおもっている。宗教のみならず、すべてのものを疑ってかかるといい。そうした、「無駄と思われる重要なプロセス」をおこったった世の中を、今、目の前で見せつけられていると思う。
世の乱れは、おとなたちが、自由を「精神の発展と結び付けらず」、「商業化した自由」に、胡坐をかいているからだと思う。自由と表裏をなす責任とか義務という言葉は,血肉化されているとは思えない。
そして、その、いびつな「自由」なるものを、目ざとい連中が金儲けに利用しているのは言うまでもない。
大げさかもしれないけど、テレビの放送時間の制限、白痴番組の禁止、
それだけで世の中が、落ち着きを取り戻すと思っている。しかし、その落ち着きのなさが、支配者の利益と合致している限り、それらは垂れ流されるだろう。憲法改正なり、自らの大きな政治的な意思が、貫徹できたとき、彼らなりの仕方で、「落ちつき」を組織するにちがいない。そのとき「自称宗教団体主宰者たち」にお声がかかるのは容易に想像できる。
外国の教会が、平和運動、民主主義の発展と結びつくことできるのは、「個人の良心の自由」、「個人主義の伝統」の背景なしには語れない。「自分」、「個人」の確立こそ、この他律的な国において、何よりも優先されてしかるべき、個々人の、精神的なプロセスだと思っている。
互敬精神、公共空間でのふさわしい振る舞いは、「個人の形成」、誤解を生む書き方になるかも知れぬが、「利己主義の確立」から発展させるものだと思っている。仏教精神から説明したほうが、早いのは承知のうえだけど、、
自分の中に「よるべき何かを持つ」ことは必要だと思う。
信念なり、立脚点という言葉でもいいかもしれない、何度も書くけど、それらは、生きることについての、検証、思索という作業の繰り返しであって、固定的なものではない。
その中核となるものは、宗教的なもの、非宗教的なもの どちらでもいいとおもってる。
じぶんのようにくらげのような生き方でも、それはそれで意識していれば、いいとおもう。つまり、みなが書いているように、よく考えながら生きることだ。
生きる途上、落ち込むことは、避け得ない。
自分の場合、その立ち上がる勇気を与えてくれたものは、
理知のゲーテでも、英知のシェクスピアでもない、親鸞だった。
年とともに、宗教とのスタンスは変わる。
じぶんは、念仏を唱えながら、(代々、「一応は」浄土真宗)、死に行ければと思っている。ご浄土の入り口で、アンタ、ダメですといわれたら、「地獄も一定すみかぞし」なぞと、つぶやきながら、地獄の道に足を引きずる意外にない。
死に際に、自分自身の生物学的結末を冷静に見守るなぞ、それほど自分は強くない。たぶん、意識もない中、オシメしてもらって、死んでいくんだろう。それは元大臣だろうが、元女優だろうがかわりない。
蛇足になるが、三島由紀夫の直感はそれを、察していたのではないかとおもう。