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(回答先: 失礼じゃったのう、ぷち熟女さんも随分勉強しとるようじゃのう 投稿者 ぼけ仙人 日時 2006 年 7 月 02 日 14:50:58)
ホツマツタヱの現在確認された最古の写本(当然ヲシテ文字表記)は平成4年に発見されたばかりです。
それを含めると全部で19の写本が現存し、それら全バージョンの異字校異、及び記紀と突き合わせた三書比較研究が完成したのが平成14年です。
現代語訳本の中には、原語(ヤマトコトバ)の研究家によれば、相当誤訳を含んだものもあるとのことです。漢訳版秀真伝を現代語訳したものは、改竄と誤訳の両方を含んでいる可能性があります。
ホツマに書かれたスズアカノミチは「宗教」というよりは「倫理」では?
ホツマに神(かみ)はありません。祖(かみ)があります。
漢語訳で祖が神にすり替えられたと考えられます。
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「五教帰一」については、あたくしはそれが弥勒教(=ミトラ教、ないしミトラ教のバリエーション)の教義であると示し、それとあなたのおっしゃる内容との符合について書いたのです。
大本教について書いたのではありません。
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「ミトラ教につては、ほとんど知らんのう。色んな影響を与えた宗教らしいが教義は残っとるかいのう。どうも残っとらんようじゃないかのう。教義のない宗教はものが言えんわな。」
「万教同根」を説く方がご自分の宗教以外のものを、それも内容をご存じないうちから否定なさるはずがありませんね?
あたくしの書くことをちゃんとお読みいただいてもいないようなのですが、ミトラ教は他宗どころか、あなたの傾倒なさっているらしい「万教同根」思想のベースの一つでもあるとも考えられます。
「万教同根」思想を説く大本教は一種の新興宗教であって、ミトラ教の習合史からは独立して成立したものであるようですが、弥勒降臨も教義に含んでいることからもその可能性は高いのではないでしょうか。
ミトラ教史についてはこちらをご覧下さい:
通史・古代
http://home2.highway.ne.jp/miiboat/HP_Mithraic_Articles_History.htm
中世・近世
http://home2.highway.ne.jp/miiboat/HP_Mithraic_Articles_History2.html
西方ミトラ教
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_History_West.html
東方ミトラ教
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_History_East.html
東方伝播:中央アジアから日本まで
http://home2.highway.ne.jp/miiboat/HP_Mithraism_History_EastProp.html
諸宗派
http://home2.highway.ne.jp/miiboat/HP_Mithraism_Modern_Sects.html
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「茶道にしても、利休さんが参禅し、禅の思想を織り込もうと腐心し、お茶の精神に「和敬清寂」を求めたが、茶道を求め行じていくと品性や霊性が向上し見事な成果が見られるによって、宗教とは言い難いものの、宗教に極めて近いものがあるわな。」
つまり、利休が自分の肖像を建てて秀吉のお手打ちに遭ったのなどは一種の殉教である、とお考えなわけですね?
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あなたがいくつも並べて言及しておられる「摂理」の類いが多くの宗教の教義の中に見られるのは、それらがあまりにも当たり前なことだからではないかと思います。
宗教家や聖典だけがそういったことを謳うわけではありません。
人が言葉というものを使うようになって以来、人の親の多くが次世代に伝えて来たことが、後に諸々の宗教の成立時に教義に採り入れられたに過ぎないのではとあたくしは考えます。
(ホツマも --- 呉々も、ホツマは宗教ではありません --- 古代のシャーマン的能力者でもあった為政者が民に伝えてきたことの記録であろうかとも思われます)
あたくしは宗教の中のそういった普遍的な部分に反発するものではありません(自らをメシャ呼ばわりしているような教祖にそんな当たり前のことを今更のようにペダンチックに言い聞かせられればげんなりしますが)。
全く逆に、宗教の教義の中のそういった普遍的な部分を除いた「残り」が何を信者に教唆しているかを問題視しているのです。
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「ぷち熟女さんもそれだけ学んだなら、「信じる」などについても、人の揚げ足とるようなことを言っとては残念じゃわな。ちょっと屈折したものの捕らえ方するくせないかのう? 嫌な奴の言うことは斜になって聞くような。」
この辺りがあなたの「宗教的体質」の表れということかも知れません。
対話者から疑問の提示があるとそれは揚げ足取りと認識され、同意の返答が来なければその相手が屈折していることになる。
要するに議論はお好きではないということであり、それ以前に、他者の自由な思考を容認する余地も最初からお持ちでないということでもあるかも知れません。
だからご自分がしばしば他者を見下したような説伏口調になられるのにも、人が辟易するのがそれに由来していることにも、気がお付きにならないのでしょうか。
「しっかり勉強しとくれ」が「日常生活で行じて欲しい」という表現に変わったところで、あなたが自分からは理解しようという気もない他者への「指図」癖が取れたわけではありません。