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(回答先: 心を育てるもの 投稿者 haru 日時 2006 年 6 月 30 日 21:29:14)
世間が神に代わったのではないでしょうか?
神はいないと思っている人間に神がいると信じさせる事は難しいのでは?
人間集団としての社会や世間というものによって人間の行動を律していかねばならないように思います。
世論というものでもいいですね。
ネットで色々と意見を言う事も又他者に対する命令になっているでしょう。
神がいると信じる人は神を恐れて「いい人間」になって下さい。
神がいないと思う人は世間体を恐れて下さい。
今の様々な犯罪は世間が力を失っているからではないですか?
世間とは例えば近所の人々の延長線上にあるものです。
子供を怒らない親などが少年犯罪を生み出していると思います。
こういう場面で一々宗教の役割があるとは思えません。
「バチが当たる。」などと子供に言っても笑われるだけです。
「アンタがいいのならいいじゃないか?神さまなんて知らないよ。」って反抗期の子供なら言うでしょう。
自分が信じてもいないものを子供に信じさせようというのは無理です。
一人一人が神にならねばならないのです。
倫理を強制する者としての。
ニーチェは「神は死んだ。」と言いました。
死んだ事が万人に知られるところとなったのならそれを「いや、実際には生きている。」と取り繕う事は不可能。
だから人間に神(超人)にならねばならぬと思ったのでしょう。
なんらかの強制力が必要であり、神の不在は「万人の万人に対する闘争」の始まりであると。
市場経済万能論は「万人の万人に対する闘争」の経済版です。
スティグリッツはそこで政府による介入が必要だと言っているのです。
竹中平蔵はもちろん「人間同士殺し合えばいい」派です。
経済の中に神は存在せず人間の良心が介入しなければ人間が殺されていくだけです。
宗教は倫理を利用して人間をがんじがらめにします。
その結果、権力の餌食となるのです。