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(回答先: “私は正しい”症候群 投稿者 荒野のラグタイム 日時 2006 年 7 月 01 日 07:44:08)
荒野のラグタイムさん、初めまして。
荒野のラグタイムさんの投稿に対するレスというわけでもないのですが、
以下、この間善というものについて考えていた時に付随的に思いついたことが、少し関連すると思うので投稿させていただきます。
社会生活を営む中では、人と人とが対立することがある。
その時、当人たちが、ある一つのことが善であるか悪であるかを巡って意見が対立することがある。
これがイデオロギーの違いに基づく事実認識の相違であるなら、中間点もしくは融合的な意見を導き出すか、お互いの言い分の論理を理解しつつも譲らないか、もしくは部分的にだけどちらかが譲るか、のいずれかの結末になるだろう。
これに対し、(イデオロギーの違いに基づく事実認識の相違ではなく)道徳観の違い、つまり、道徳的な判断基準の違いに基づく事実認識の相違が生じることもある。
この場合は、妥協できることもあれば、妥協できないこともある。
妥協できるならまだよい。
だが、両方が妥協の余地なしと考えている場合は、はっきり言って始末が悪い。
非難の応酬になる。
そして、この非難が、時に、部外者に、「排除論反対」論を唱えさせる。
この時、彼らは、入口でつまずいている。
非難と排除は別物であるのに、非難を排除と同一視して論じているからだ。
排除論批判をやりたいのなら、正真正銘の排除の事例を引いて行うべきだ。
彼らは意識的にせよ無意識にせよ、そのような前提から誤っている「排除論反対」を唱えることにより、単に非難を行っているだけである当事者の片方に、「排除論者」とのレッテルを貼り付ける。
貼り付けられた方からすれば、風評被害もいいところである。
うわべだけ排除論反対を唱える彼らこそ、排除論を地で行く人々なのではないのか。
排除論反対を唱えたいのは排除論者とのレッテルを貼られた方であろう。
以上、「『排除』論反対論」批判であった。