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(回答先: 心を育てるもの 投稿者 haru 日時 2006 年 6 月 30 日 21:29:14)
haruさんのおっしゃることには、全面的に共感致します。
>幼き頃には、親、大人達から、バチがあたるぞ!など
>数多く脅かされて育ちました。
>親に対して口応えしても、物を粗末にしても、
>事ある毎に、バチが当たるぞ!とか、神様、仏様が見ているぞ!とか、、
>そうやって、してはいけないこと、禁忌について学んだのだと思っております。
>現代は、子供にそのような言葉を向けても、馬鹿にされるが落ちでしょう。
昔の子どもたちは、爺さん婆さんから「昔話」を聞かされながら育ちました。
「むかしむかし、あるところに・・」で始まる、あれです。
西洋では「イソップ」もそうですね。
そういった昔話は子どもの「潜在意識」に働きかけ、それが子どもたちの「教養」の礎(いしずえ)としてインプリントされてきた。
昔の子どもたちは、「やっていいことと悪いこと」や、自身における「ものごとに対する判断原理」を、これら昔話から学びました。
それは「教養の礎」「判断原理」に留まらず、人としての「人格」を形成する上での「骨格」すらになった。
こういった昔話を聞きながら育った人たちには、何か誤ったことをやってしまった人間が、「皆がやっているから私も」とか、「上司に命令されて仕方なく」などという言い訳をしながら、その実「私は悪くない」と主張する人間を軽蔑するでしょう。
これらは「判断原理が内にない」人間の、典型的な逃げ口上だからです。
そういった人間は自らの不幸を「責任は私にある」とは殺されても認めず、常に「誰かが悪かった」「時代が悪かった」「社会が悪かった」と、常に他者や自分以外のものに「責任転嫁」をし続ける、「腐った被害者意識」に凝り固まった人間でしょう。
私は、人が人として完成した存在として機能するのには、「宗教」は必要ないと思っています。
各々がその成長過程において、「判断原理を自らの内に取り込む」ことが大切で、これ以上に大切なことはないと。
それは宗教が教えてくれることではない。
もちろん、時代時代や、生まれ育った環境において、人には「自分にはどうしようもない」状況や、「運命」というものを与えられます。
だが、その状況や運命を前にして、その上で「自分はどうあるべきか」ということは、100%自分で決めなければならないし、それが人として生まれた「責任」であると思っています。
「宗教が必要か」という議論の論旨から、少し外れてしまいましたが、本質的なものからは外れていないと自分では思っています。
「自らの責任」を果たせない人間にとっては、「宗教」すらも豚に真珠なのかもしれません。