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(回答先: heartさんへのレスですが、、、 投稿者 haru 日時 2006 年 6 月 21 日 19:49:00)
haruさん、レスが大変遅くなり、申し訳ありません。
>もしかしたら躊躇いの有る無しが、
>善の真贋を見きわめる要素かも知れません。
>躊躇いのない善は、とても危険に思います。
>けっして振り返ることのない善は、、、
私は、躊躇いのある善は善ではないと思います。
他人の批判に耳を傾けることは前にも書いたように重要であり、自分が善と信じているものを全く疑わないのはそれはそれで確かに問題があるかもしれません。
しかし、躊躇いのある善というのは、つまり、自分が善と思うことをしながらも躊躇いを感じるような善というのは、それこそ偽善なのではないでしょうか?
というのは、躊躇いを感じるというのは、何か後ろめたいものを感じているからではないかと思うからです。
自分がしていることが善だと信じられないのならそれは善ではないのではないかと思います。
もっとも、世の中、完全はありません。
完全な善というものは、望むべくもないのかもしれないと思います。
しかし、躊躇いを感じるくらいならそんな行動はとるべきではないと私は思います。
一方、ある行動が善かどうかで躊躇うことは悪くないと思います。
ある行動が正しいかどうかわからないながらもその行動をとる、ということは、人間、しばしばあると思います。
ではその行動は善か?悪か?というと、二項対立では論じられないと思います。
善悪の基準は人によってまちまちです。
ある行動を、善と見るか、悪と見るか、どっちとも言えないと見るか、それも、人によって違います。
また、一人の人でも、善悪の判断基準は、移り変わります。知識や体験を積むことにより物の見方が変わるからです。
であれば、善というのは、各人がそれぞれ追究することしかできないものだ、ということになると思います。
人がとれる最善の行動というのは、その時どきに、善に違いないと思う行動、ではないでしょうか。少なくとも、悪ではない、と完全に信じることができる行動なのであれば、それは善だと見てよいのではないかと思います。
前にとった自分の行動が間違いだったと気付くこともあるでしょう。それなら、気付いた後はそれを直していけばいい。
そうやって試行錯誤しながら善を追究していくこと、それ以外にないのではないかと思います。