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(回答先: ありがたきかな、我が生命 投稿者 haru 日時 2006 年 6 月 21 日 21:43:21)
haruさんこんちは、
私は、人の生き方なり、人生観なりに容喙する気はありません、自分の生き方の流儀を、少し披露させてもらっただけです。
生き方の、器用、不器用、私の興味にありません。
「汝の道を行け、人をして、語るに任せよ」です。
信念のとこでも書いたけど、日々の思索なり、言動なりが帰納法的に収斂され、
信念のようなものが、浮かび上がると書きましたけど、そしてそれが、再度、
演繹され、思考なり、日々の暮らしなりに、反映される、その帰納、修正、演繹をくりかえしながら、「磨きがかかる」だとおもいます。
「生きることの意味」も、はじめに、「生きることの意味ありき」ではありません。信念と同じような、帰納、演繹、修正、そんな過程を繰りかえすのだとおもいます。
歩んでみて、そして振り返ってみると、自分の「生き方の流儀」が自然に形成されているのが見えるというのは、その、「無意識の帰納への過程」を指しているのだと思います。
自分の考え方なりに、ひとつの「羅針盤」なり, よく考えながら生きる、という視点がないと、「自分の考えが、ぶれたり、無責任になる」ということあると思ってます。そして発言が軽くなるとおもいます。
人のことは言えませんが。。。
世を仕切る、おおくの人たちのの思考の底には、「やりたいことやればいいんだ、 あとは野となれ山となれ、」一種、刹那主義があるとおもう、そしてそれは、権力と直結しているので始末が悪い。つまり、メインの文化として、マスコミを通じて、国民にも浸透しつつあるのではないかと危惧してしまう。
しかしそれは、「ひとり、ひとり、精一杯生きるということ」とは、意味を異にすると思うのです。
生きる意味のみならず、物事を、根本的な次元で捉える、無駄なことを考えるというプロセスが世に定着してないと、世の中が、空騒ぎに支配されてしまう。
つまり、今の騒々しさは、人が、根源的なもの(無駄なこと)を考えることをやめてしまったということに由来するとおもうのです。
親が、子供を持つことによって、「親にしてもらった」のだから、
親が子供に感謝すべきです、逆ではありません (にが笑い)。
子供が、自分の生きる意味を与えてくれるということはあります。
怠惰な自己を鞭打ってくれる、我慢することを教えてくれる。
そして過ぎた時間を振り返ると、努力なり、忍耐なりが、自分の人格の一部として形成されているのが見える。
子供のおかげで、「グレない」で済んでいるのは、わたしひとりではありますまい。
聖的な生活というものはえてして平凡なものである、ある、学者の言葉です。
自分が、「人間でありたい、という自覚」なしには、「人間である」ということは難しいと思っています。それはあたかも、自由が、平和が 憲法に書いてあるから、保障されている、「ふんぞり返っていればいいんだ」、と同じようなことだとおもいます。自身の「人間でありたい、ありつづけたい」という、切磋琢磨のプロセスが必要だと思います。
惻隠の心、「錆つきやすし」ということです。
生きる喜び?までは届きませんでしたけど、きょうはこれまでにしときます。
このつぎです。