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今、自分が生きているということは、自分自身の「感性」なり「理性」なりを、どこかで、「麻痺」させることができるからだと思う。
子供が誘拐されて殺されたり、戦争のニュースをみても、動けなくなるほど、気分が悪くなることもない、せいぜい、すこし「芝居がかった」ため息が出るくらいか。
今日、世界のCO2の発生値を、今後10年間で半減しても、2100年には、地球の温度が平均三度上昇するだろう、という記事を目にする。
だからといって、道路に飛び出し、駐車している車の窓ガラスを叩き割るほどの「正義感」はない。
溜め込んだ金を、紙切れにしてしまうな自然現象の到来に警笛が鳴らされているのに、日々の経済活動は、注油されたばかりの歯車のように作動している。
人は自らの、「正常性の維持」に、宗教以上つよいに「狂気の濃縮ジュース」を脳内にしみこませているの違いない。
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ある病院の夜のこと、多数の死を迎えた人たち、特に老人たちがこの病院に収容されている、肉親の看病(つまり死を看取るということ)でしばらくここに滞在していたことがある、夜中に、死を目前にした人たちの、うめき声、夢うつつの声が、が、あちこちから聞こえる、「うあおー」、「ぎゃあー」、「おかあさーん、なんで、来てくれないのー」、獣医院に近いものだった。
貴族の手中にあった仏教を民衆化させた、鎌倉仏教の創始者たちは、この地獄の風景に日夜接していたと想像する、飢えて死に行く人たちである。
そこには、批判者がしばしば語る、自己満足の宗教、甘味な自己陶酔の姿なぞ微塵もないし、あるいは「殺生を禁じる仏教」者が徒党を組んで、為政者の戦争政策を支持する倒錯した姿もない。
自己救済があり、他者救済がある。
「徒然草」のなかに、死は背中からやってくるという、くだりがある、
それは、予期しないときに訪問するのだろうきっと。
知人の話によると、がんを告知されたある女性は、治療を拒否して、普通のまま暮らしているという、話が本当なら、自らの「生物学的運命」を普通に受け入れる強さに驚嘆してしまう、
彼女は死を前にして、うめくことも、叫ぶこともないだろう、
自分もそうありたいのだが。。
今日も、自分の人生のろうそくが、短くなった。