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(回答先: 必要とされることが必要であるがゆえに 投稿者 蝋梅 日時 2006 年 5 月 26 日 17:55:13)
「美しい関係」というものがどういうものかと考えたことも無いが、
人は心底惚れたものに対しては、尽くし尽くして見返りを欲したりしないものである
それを友という立場に置き換えればそれは行き過ぎである
やはり「友」とする立場は互いが何かを共有する関係でバランスが取れている
人が心底惚れたものに対して、己のあるべき姿を美しく魅せたいと思うのは、神の前で自然と頭を捧げ願うのと似て、相手との間に純然たる関係を求めているからである
主従関係というのはまさにそうしたところに立つものであり、そうした間柄に於いては、己を捨てることも簡単であり、ただそこに純然たる関係だけを浮かび上がらせようとするのである
清い関係とは、そうありたいと心から願うところにこそある
束縛から離れ自由でありたいと願う立場であればこそ、自分を諫め奔放にすぎぬようバランスをとるのである
友と呼ぶ間柄に身を置くには、それさえあれば関係は良いものになるだろう
何も美しい関係などと結ぶことも無い
人が心より喜びを得ることであれば、それは善である
人の喜ぶ姿を考えるのも善である
人に知られずそれを行うのも善である
見返りを求めればそれはただの取引である
しかししてみれば、付き合いとは様様にして友との交流でもあるが
学びを見返りとみれば互いに利益のある取引とも呼べるのであるから
やはり積極的に人の前に出、本心で付き合うべきである
互いに見返りを求めない事を互いに分かり合っている、と言えるまでの関係であれば、
それはほぼ同一なる存在であろう
それを人は親友と呼ぶ
惚れたものに尽くすのも、見返りとして自分が心地良いのであればそれは取引である
その心地よさは容易にして得難き取引である
よって善行もまた行うべきにその特化した魅力がある
此の世には 汚い自分を見せるために生まれてくる者などもおらず
老いて死ぬまで 自分が綺麗だったと言い張るものも居ない
心は純真に過ぎても、そこに汚れはつきやすくなるだけだが、
されど汚れたままにして綺麗だと居得ることもない
汚れればすすぎ、また汚れれば洗う
というサイクルの中に自然も我々も無意識に活動している
人の生き方というのもまた、概ねその繰り返しである
ゼロに帰すための努力を忘れなければ良いだけである
例え千日万日、悩み迷い、おごり怒り、悲しみ朽ち果てていても、
洗い流せばわずかその日一瞬で、人は人たる元に帰す
汚れていて気持ちが悪いと思えば、洗えばいい
人の付き合いとは人の生きる様であり、
改善したいものあれば改善すればよいだけのこと
一方に人が立てば、そこに相対する人が立ち
片方が笑えば、もう片方も笑う
怒鳴ればもう片方も怒鳴る
片方が心穏やかでいればもう片方も穏やかで居られる
片方が怒っていても、もう片方は相手を気遣い、何故怒っているかについて考えることだ
人はそうした中で成長する
「負けず嫌い」が一般に悪い評価を受けていると聞いたこともなく
過ぎることさえなければ、往々にして人によい成長をもたらす
有って無いものを逐一考え、悩むことは無い
私は偽善という言葉も信じない
良かれと思って施すことに真も贋もない
相手の為を思うことに善し悪し分ける理屈はない
なんでも思い切ってやればよい
悩み、悩まぬのが一番良い