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(回答先: 見返りを求めない関係 投稿者 日 日時 2006 年 5 月 25 日 01:49:25)
それがこの人の魅力だと思います。
レス下にレスしたのは、
<見返りを求めない関係>
という言葉にちょっと修辞句を足そうと思ったからです。
<修辞句は腐るが、動詞名詞は腐らない・・・>
なるほど。
修辞句はやめにします。そもそも修辞句の意味すらわかっていない私でした。
では改めて。
友とは、私が感じるのは、心の受渡が持てる関係のことです。
友とは私にとってそれは「運命」的とも言える関係です。
またある意味では「友」と呼べるものは無数にあります。
こちらがこわばりや構えを解き、対象とする「相手」をごく自然に受け入れられる、
寛容ともいえる状態に立ったとき、そこに映るもの、感じるものすべてが「友」と呼べる。そうした空間に身を置くとき、友するものと空間を一にすることができます。
それがペットであれ、庭の植物であれ、目に見えぬものであれ、生きぬものであれ、自分の深層にある意識であれ、こちらが心を通わせるその”覚悟”にただ身をあずければ、感じるものすべてが穏やかな空間に包まれます。
花の咲き誇るアーケードを見上げては、全身が満たされてくるのがわかります。そして、どこからともなく酒宴の香り漂ってきて、にぎやかな花の精の余興が聞こえてきます。
こちらが殺気立ち、敵対心をもてばそこに敵は生まれます。
それはその身の意識の中でどこまでも恐れとともに巨大になるだけ。
ただ、自分の上に人は居ないと思うような権力の上に胡坐をかこうとする者、または欲望や甘えに身を落とすままに逝く者を、仲間としてほっとくわけにはいきませんね。そうした相手はむしろ注意されることをただ待つしか出来ないのですから。しっかり注意してあげないと。
敵対心を持たないで注意をするには、こちらが寛大な立場に立たなければならないのです。
それはけっして上の立場で物を言うのではありませんね。
今は大分世の中がおかしくなっていることだけは否定の出来ない事実であり、穏やかな頃の、その時代のやり方のままでは通用しないことも確か。しかし、忘れていけないものは基本中の基本です。どの時代もそれを忘れることはなかった。
その時代時代のやり方、考え方を、今の時代によくよく照らし合わせて、何が「人の為」になるのかを検討することが必要だと思いますね。
大分答えは方々で出歩いていますが、それをまとめることも大事。
そうした「前向き」な話し合いの中に大きな輪は描かれていくと思います。
「友」であり、
「仲間」であるということ。
人の基本を守り通せば、時経てやがて太く強いものに。