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(回答先: 排除を安易に行う、そのような事を受けいられない根本理由は、 投稿者 haru 日時 2006 年 4 月 30 日 20:25:05)
私は敢えてこのことを、立正安国論をここに挙げました。
それには明確な意図があります。
私に感じることはひとつ。
それは誤解。誤った解。癒されぬ思いがまたひとつ封印を解けと時代をなぞらえて現れる。
それは創価の為等ではけして無い。
それはイッセンダイと思しきゆえに。ははは。
疑問を持つならとことん素朴に。
疑問を晴らすならとことん素朴に考え抜かなくては。
・・ただ、「考えること」それは基本と私も覚えて来ましたが、既に私はそのことを放棄するかのようにしています。そこに私は直感の中で、言葉で締めくくらない空間に自由に物事を配置し、「まるで上の空」のように「診回す」ことにより「考える」ということを時に試みています。他人と違うものを見る秘訣は概ねそんな類のことです。
普通の人と存分に違っていていいのです。また違っていなければ他人の空真似と同じままです。
得た考えが正しいのかどうかは、おのずとわかってくるはずです。それは自分を意識していては出来ないことかもしれません。何かを得ようとひとつの考えに執着するよりも、人に対して常に純粋な「あなたらしさ」を発揮することです。
それはやさしさだけでなくきびしさでもあり。
それにより誰とも似ていないあなただけの愛を学ぶでしょう。
力み(意思的緊張)を捨てたときに誰にでも完全に備わるその能力は発揮できることに似たり
無意識時にはあなたは眠っていますが、そこでは素晴らしい力を発揮しているはずです。
試してみてください。「今日一日絶対"肩"に力を入れないで過ごす」、と決めて、そのようにしてみてください。そして普段やっていることを変わりなく行うのです。
これは私の思い付きです。やらなくても別にいいです。ははは。
ただ、考える時、車の運転時など、特に肩に力が入りやすい時に抜くことをお勧めします。考える。力みがあったら抜く。それを繰り返す。
haruさん。あなたはあなた様の感じ、考える通りのことに自分を従わせ、あなたの明確にしたい事柄は「すべて満たされて然るべき」欲求として、そこに他人を通じあわせて「自分自身」と獲得なさいませ。
誰にもこの夢のことで何かを問うたりするつもりは全くありません。
しかしとりあえずでたあなたの今のその答えは保留して置いてください。
「すぐに結論を」とあなた自身による束縛に、何も急がなくてよいのです。然るべき時がくれば「自然と」わかるはずのものです。
こうしたものは誰も彼も、読み解くに時間は掛かるものかもしれませんから。何故と訊かれてもいわずもがな。
何事も「すぐ結論」を持とうとしないで、まずただ心の宙に浮かばせて置くことをお勧めします。答えはあなたの中に既にあるのです。それに変な結論を結びつける必要は無いです。
ちんぷんかんぷんなことをまた言ってしまったでしょうか。
「立正安国論」読み解くところは別にあり。
確かにそのままに読み受け取ればそのとおりに感じたままのものでしょうか。
他宗批難はしてよいものです。おかしいものはおかしいと。私は大きな声で言えましょう。今の世の仏教界も一部を除き、また腐っていると。
日蓮の声を借りて大きな声で言いましょう。ははは。
しかしその声は創価の声とは相反するものと知ります。
そこを誤って、批難するもの、ただ盲信ばかりの者多数。
悪さをせねば何も悪い事は無いが、その道を目指し、誤った道筋を知らぬとはなげかわしや・・・。何故入信したかと問えば、みな答えは一様か。
他宗批難は空海も同じ事をしています。
空海は空海の時代にすべき使命。そしてまた日蓮は日蓮の生まれた世に使命としてあった。この二人の他宗批難は正しい。今の世にそれを照らしても見てわかる。
それを誤って診ては、また世は狂うばかりとなる。
イッセンダイ。何者や。利己益追従のものなり。
宗教批難、盲信を捨てよと謳う者が増えるのもわかるが、それはそれ。
誰も彼も、「その名」や地位、権威に惑わされず、物事を見極める目は持っている筈。
宗教のあり方ひとつとっても「人の為」と常に物事の是非を優先して考えれば、世のバランスは知り得、過ぎて壁に当たることなし。主張は確かと深くに持ち、建前は誰にでも通じるべきものとかく在る。
逆に己の利益優先、名誉、金銭を熱望する者は世の人々のバランスを知ることが出来ない故に、自分の知らぬところで大きく人の目に曝け出すことになる。
世が世故、敢えて決断した日蓮の訴えとは似ても似付かぬ。
日蓮は説く。
かの観世音菩薩はどうした姿にて人々の前に現れるかと。
子を愛す親には子の姿にて教えを説くと。姿かたちを変えて様々に、人に合わせて姿を現すと。
さて、クマラジュウという名が浮かぶ。ハテ、なんだったか・・。インドを連想させる執拗な夢と現はこのことに近いのか。私はあいも代わらず無知のまま。誰かが知ればいい。誰かが紐解けばいい。
日蓮の使命を果たすその時、まさに地獄修羅餓鬼畜生界。貧窮を極めた末法の世。空海もまた仏教界を批難していたというが、当たり前の事。戦乱の世はまさにそうした者達が動いて作っていたとも思う。イッセンダイめ。
空海没後に来たる末法の世。
それを説く日蓮の手腕空しく、説くもの囚われ。
何の因果か今日か。
人々が彼を受け入れられないのは何者の仕業?
その世末法の世にして仏教伝播の最後尾。
そこに漂流れ生まれた彼の生き様、その意味は。
日蓮の説く「排除の理論」はイッセンダイにのみ向けられ、またその罪にのみ向けられている。
「戦の世」、それそのものは排除意識により現われる。
誤ったまま引き継げば誤った世は続く・・・。
なってしまえばその世に従わざるを得ない。
それもまた世の常。
しかし今の世はそうではない。戦、その大義の殆どが紛い物。
(イッセンダイの囁きに)囚われている者を救わんとせずして何が倫理か道徳か。
無意味な血を流さずとも纏まる方法は今の世にこそ必ずある。
それは信じることから始まる。素朴な疑問を。素朴さは大きく物事をとらえる。
獣が生き血を啜る時代を呼び込まない。
今こそ心の知恵をひとつにしなくてはならないのではないか。
またと展開されるこの今の末法の世に何を我々は学んでいる?
何を望んでいる?
いま世に正しい物が無くなって久しい。
正しい物があるのならみなそれを喜んで学ぶだけで済んだかもしれない。
それはただの基本的なものごと。素朴で自然なあたりまえのこと。
それを無くし、今もなお無くし続けているのは誰でもない。
我々自身だ。
正しいものを掴むのも我々「自身」だ。
互いの存在の素晴らしきを讃えあうこと、信じあうこと、またそのことを共有すること。
互いに負けないこと、またそのことを認めあい、讃えあうこと。
互いに譲り合うこと、他人を自分ととらえ、己の正しきを導くこと。
自分を愛し、また厳しくし、得難きものを得る為の苦難には喜びをもって飛び込むこと。
つくす存在を自身の中に持ち、それを正しき導きの果てに一体となるべく自分を練磨させること。
(ゆくゆくそれらすべてを包括、物事は先行してまず悟り、叶わぬかと諦めては己を可能の者と戻し(「明きらめて(空海)」)ては悟り、ゆくゆくただ逝くのみ)
然るべき願望は必ず叶うものと成就させると願っては願わずただ忘れて精進む
この今の時代は、複雑に物事が散らかり放題散らかって、
「正しい物が無い」と思わずには居られないか。
そして迷い、各々があれこれと「ちぎっては食べ」して生きている。
まず思うことはひとつ。
すべて「可」であると。
これもまた今の世の学びなり。
邪な世界が出来ることはない。そう信じること。もしそんなことが・・、出来上がればどうなるだろう・・・、ひとり不安がること、ただよこしまな思いを呼び込む播き餌に似たり。
我々ひとりひとりの「甘え」は時に大胆に捨てよ。
なせばなる。
その「甘え」に翻弄されるも己を叱咤せよ。励ませよ。まずやるのだ。
「甘え」を完全に捨てた後に、本当の良い「甘さ」を「喜び」と知れるのではないか。
言葉に理屈をつけて逃れることばかりを考えていれば、人為的につくられた理に心囚われ、自分たる正しさを失う。
それもまたよし。
急がし騒がす言葉の理屈に迷わない。
ただ信じる心捨てぬだけ。
各々が迷わない正しいものをそこにもたらしますように。
さあ普段どおりの生活を。
先へ、まだ先へ
暗転の空、必ずや晴らしましょう