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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu117.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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ソクーロフ監督の話題の映画「太陽」 やはり日本人は
ドイツ人と違って「あの戦争」をいまだに総括できていない
2006年4月1日 土曜日
◆「あの戦争」を描いた映画 3月26日 しんいちろう茶屋ブログ
http://blog.livedoor.jp/shinkimu1125/archives/50463270.html
最近第二次大戦がらみの映画を何本か見たんですが、「男たちの大和」は空疎な映画でした。映画に背骨がなく、安手なセンチメンタリズムとヒロイズムが場当たり的にたれ流される客観的な視点を欠いた映画という印象。脚本家の野上龍雄が、「私が『男たちの大和』の脚本家を降りた理由」というタイトルで「シナリオ」誌で内部告発していましたが、もともとの設計図はもっと叙事的で冷徹な視点を持ったものだったようです。要はプロデューサーやらスポンサーやらがよってたかって圧力をかけて安手なものにしてしまったというのが真相のようです。
不思議なのはこの映画、玄人筋の評価も意外に高く、キネ旬のベスト10にも入っていたんですよね。福田和也が口を極めて絶賛していたのは角川春樹の友達だから仕方ないとはいえ(笑)。
対して「ヒトラー最後の12日間」はほんとうによくできた力作だと思いました。ヒトラーやゲッペルスの人物像には、ドイツ国内ではかなり批判の声もあがったみたいですが、ヒトラーをただの能面みたいに描くんじゃなくて、人間的な温かみのような部分も同時に描くことによって、人物造形がより具体的・立体的になっていたと思います。どんな悪党にだって鬼畜みたいな側面だけしか持たない人間なんているわけないのだから。秘書の女性にやさしいまなざしを向けるヒトラーを描くことによって、逆にこの人物の狂気というものも、より強いリアリティと陰影を持って表出されていたと思います。
この2本の映画を続けて見て改めて思ったのは、やはり日本人はドイツ人と違って「あの戦争」をいまだにきちんと総括できていないんだな。ということ。その不幸を改めて感じました。「ヒトラー最期の12日間」に比べて「男たちの大和」が扇情的なだけの卑俗な映画にしか見えない、その差異の根本的な理由も、そこにあるのではないでしょうか。あの戦争が何だったのか。国民的な合意形成がまったくされていないから、背骨のまったくない、お涙頂戴映画にしかつくりようがないのです。ぼくはあの戦争が100パーセント日本軍の侵略戦争だったという東京裁判史観にはまったく与していません。ただし、だからといって小林よしのりの「戦争論」みたいな行き方にも疑問があります。必要なのは叙事的で冷徹な視点ではないでしょうか?
ところで、日本ではおそらく公開は無理でオクラ入りになるだろうと噂される、昭和天皇を描いたソクーロフの「太陽」。このサイトで少し断片が見られますが、これは相当すごい映画になっているという予感を感じさせます。なんとか見る方法はないでしょうか?
◆太陽(Солнце) 監督:アレクサンドル・ソクーロフ デラシネ通信
http://homepage2.nifty.com/deracine/russia/solntse.htm
(概略のストーリー)
皇居の地下に掘られた退避壕(防空レジデンス)。天皇が独り食事をしているところからスタート。侍従たちがかいがいしく世話をしている。食事をしながら、天皇が「ラジオをつけてください」と言う。侍従がラジオをつける。威勢の良い軍歌。侍従はこれは良くないと思い、チャンネルを変える。今度は「ラジオ東京」の英語ニュース。「沖縄で多くの学生が最期まで戦う用意を表明し…」
天皇: 「消してください。」
侍従が、今日の日程を伝える。
侍従: 「10時 御前会議 12時 海洋生物学の研究、14時に午餐、15時から16時まで午睡・・・」
天皇: 「アメリカ軍がここに来たらその日程はどうなるのかね?」
侍従長: 「日本人が一人でも生きている限り、アメリカ人はここに来ません。大正13年の日本国民を侮辱したアメリカ人など・・・」
天皇: 「あ、そう。」
天皇: 「日本に最後に残る人間が私一人になったらどうする?」
侍従長: 「お言葉ですが、陛下は天照大御神の天孫であり、人間であるとは存じませぬ」
天皇: 「私が神である証拠はどこにも何もない。この皮膚も他の人と同じではないか」
侍従長: 「・・・」
天皇: 「怒るな、まあ、いわゆる冗談だ」
御前会議に備えて着替え。 侍従がシャツ、軍服の上着を着せる。
侍従: 「お痩せになりましたね」
天皇: 「誰も私のことを愛してくれていない。皇后と皇太子以外は。」
侍従: 「そんなことはございません。 皇室の方々、それに国民も愛していますとも。」
天皇: 「そうか。ところでローマ法王はなぜ私の手紙に答えてくれないのだろう。」
侍従: 「どうせ、枢機卿のところで止まっているに違いありません。」
天皇: 「そうか。(笑顔で)まあ、よかろう。」
(中略)
退避壕から地上に上がる。
すでに白亜の洋館の庭には、米軍が用意した黒塗りの車が待っていた。米軍兵士から車に乗り込むよう、ぶっきらぼうに指図される。
皇居を後にし、東京の町を車で走る。周りは悲惨な焼け野原。悪夢は現実だったのだ。
マッカーサー司令官の待つアメリカ大使公邸に到着。
部屋の前でドアが開けられるのを待つ。
米兵: 「なに、俺に開けてほしいのか」
ドアが開けられ、部屋に入る。
司令官が大声で「Your Majesty, Come in (陛下、お入りください)」。
日系二世の通訳官が司令官に「天皇陛下に対して、そのような大声は失礼であります」と上官を咎める。
司令官は「何をぬかす。お前は通訳だけしていれば良いのだ」
通訳官: 「(かしこまって)陛下、連合軍の決定について同意されますか?」
天皇: 「いかなる決定も受け入れる用意があります。」
司令官が天皇をソファの方に手招きしながら、「今日はどうして着物ではないのですか?」と訊ねる。
天皇は「着物は国民の祝日に着る物。今日は、私にとって Disgrace と Griefの日であるから着ないのです」と英語で答えた。
ソファにかけながら、さらに天皇は英語で「私はドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語などをしゃべれるが」と続けた。
通訳官が日本語で「陛下、英語でしゃべると、このアメリカ人と同じレベルになってしまいます。どうか日本語で話してください。」
勝手に天皇と話している通訳官にマッカーサーは激怒し、「10日間の謹慎だ、もういい。去れ」。
天皇: 「あなたの召使が、ここはオフィシャルな場であるので、天皇は日本語で話すべきですと言いました。そういえばその通り、私は外交上の習慣を忘れていました」
司令官: 「彼は私の召使などではない。あなたの国には召使がたくさんいるようだが・・・(大声で)通訳官戻れ!!
ところであなたの子供たちはどうしているのですか?」
天皇: 「子供たち? 昨日、天皇は皇太子に手紙を書きました。」
司令官: 「それで、天皇は何を書いたのですか?」
天皇: 「戦争の敗北について・・・ イルクーツクまで進軍するべきだと軍部は主張したが、私は押しとどめた。首相は国の財政状況を把握していなかった。」
司令官: 「今日はこれまで。皇居に送らせます。」
天皇: 「あ、そう」
丁寧に白い手袋をはめ、帽子をかぶり、軽く一礼する。
ドアのところで外をのぞきこむ。だれか開けてくれぬのか。
恐る恐るドアノブを回し開けようとする、急に先ほどの兵士が開けてくれる。
天皇はまた司令官の方を向き直り、軽く一礼する。
司令官: 「(通訳官方を向き、呆れた様子で)今のはなんだったのかね。」
通訳官: 「陛下はおそらく自伝の一部を読んでいたのではないかと察します。」
司令官: 「まるで子供みたいだ。状況を把握できるまで、心神耗弱による自宅軟禁扱いとする旨、ワシントンに報告しろ」
(中略)
マッカーサーとの2回目の会談。1回目と同様、大使公邸にて。大広間でのディナー。
天皇は美しい皿を観察している。
司令官: 「その皿は、打ち負かしたドイツから持ってきたものです。アジアでの勝利を祝うために。その皿の主(あるじ)のもには、あなたのお友達がよく訪ねてきたそうです。」
天皇: 「友達?」
司令官: 「ヒトラーのこと。あなたが同盟を組んだ相手です。」
天皇: 「私は会ったこともありません。」
司令官: 「・・・ハバナの葉巻はどうですか?」
天皇: 「私は結構。」
司令官: 「奇遇なものです。私の父は、この地に軍事アタッシェとして来ていました。父は米国大使から懇意にしてもらっていたので、ここによく来ていたとか。そこに私がこうしているのですから。」
天皇: 「そうですか。ただ、(あなたのお父様のことを)私は覚えていません。ところで、日本にとっての対連合国戦争での勝算は5割。そして、ドイツにとっての勝算は10割でした。」
司令官: 「何のことです?」
天皇: 「日本とドイツとの同盟のことです。」
沈黙。
天皇: 「わたしもハバナの葉巻をもらいましょうか」
司令官は葉巻を差し出す。
天皇はロウソクの火で火をつけようとするが、つかない。
司令官が「では、私の葉巻から火をおとりください」と言い、ソファへと誘う。
司令官が火のついた葉巻を口にし、吸い込む。
天皇がその葉巻に自分の葉巻をつけ、これも吸い込む。 天皇の葉巻にも火がついた。
司令官: 「(つぶやく)現人神(あらひとがみ)でいるのは疲れるでしょう。」
天皇: 「なんと言いましょうか。それは楽ではありません」
天皇はくつろいだ様子を見せる。
(後略)
(私のコメント)
この「太陽」と言うロシア映画は去年のロシアの映画祭でグランプリを獲得したそうですが、日本では公開されそううもなく、DVDで発売されないかと期待していますが、どうだろうか。海外からDVDを輸入すれば見られるのでしょうが、天皇の終戦前後を描いた映画と言うことで物議をかもしそうで、日本でもDVDの発売は難しいかもしれない。
だから私自身もまだ見ていないのですが、ストーリーの概略は映画を見た人によって公開されている。それによれば主演のイッセー尾形による喜劇仕立てになっているようだ。もちろんセリフなどはフィクションですが、よく調べられて書かれていると思う。しかし日本人の中にはユーモアを解さない人も多いから笑わない人も多いかもしれない。
いまだに現代でも天皇をタブー視して神格化するかのような扱いがありますが、それとは反対に小泉首相のように皇族の反対を押し切ってまでも皇室典範改正を行なおうとする事などもあった。対外的には天皇陛下は国家元首の扱いだから重要な問題なのですが首相一人の一存で2600年の伝統が変えられようとしていた。
ところが首相はもとより国民のほとんどが女性天皇と女系天皇の差も分からずにいる。天皇を神格化するのも間違いなら女系天皇も認めるような伝統の破壊も間違いだ。そして皇室問題そのものもタブー視しないで戦争責任の問題も含めて論ずるべきなのだ。
私自身も法律上の戦争責任はなくても天皇には道義的な責任はあるだろうと思う。だからある時期をもって責任をとる意味で退位も検討されるべきであった。しかし大東亜戦争そのものに対する評価もいまだに下せないような状況ではそれも無理だったのだろう。
このロシア映画の中での天皇のセリフで「大東亜戦争の原因のひとつについて語ろう。大正13年、アメリカは移民制限法を日本人にも適用し始めた。それが、日本国民、軍部を大いに刺激した。」と述べているそうですが、ロシア人の監督から見ても大東亜戦争は人種解放戦争でありアジアの植民地解放の戦争でもあったことを示唆している。
もしこのような大東亜戦争の評価が下されれば、天皇の戦争責任もまた違ったものになる。私が残念に思う事は昭和天皇自身の回顧録がないことであり、天皇自身しか知らない事も沢山あったことだろう。御前会議の様子も口伝で伝えられるだけで公開されたものはない。
マッカーサーとの会見も内容はいまだに公開されず、アメリカの公文書の公開も無理なのだろう。だから終戦前後の天皇の映画を製作する事は大変冒険なのですが、ロシア人だからこそ出来たともいえる。日本でもアメリカでも中国でも、政治的な思惑が入ってしまうから難しい。しかしロシアなら終戦間際まで中立国だったから比較的冷静に見られるのだろう。
その意味で戦争の遠因がアメリカの人種差別法があったことを指摘するロシアの見方は興味深い。原爆投下についても映画の中ではマッカーサーは「私の命令ではありません」と否定しているが、ルーズベルトとトルーマンの命令であり、マッカーサー自身は必要ないと思っていたのだろう。つまり日本への原爆投下は有色人種を使った人体実験だったのだ。
これはあくまでもロシア人の映画監督の見方であり、大東亜戦争にさほど関与していない国から見れば、このような見方は自然なのかもしれない。だから時間が経てば大東亜戦争に対する評価も、中国や韓国やアメリカがやいのやいのと言っても、歴史的には人種差別や殖民地からの開放戦争であったという見方が定着するだろう。
もし大東亜戦争が起きていなければ白人優位主義が定着して、アメリカでも黒人が虐げられていただろうし、アジアでも多くの国が植民地のままであったかもしれない。まさにそれらの国から見れば日本は「太陽」だったのだ。