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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu116.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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帰国子女と言われてもてはやされる人の書いた英語は
読めたものではない。文法的にいい加減で、内容がない。
2006年3月28日 火曜日
◆小学校英語、必修化を提言 中教審、高学年で週1時間
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060327-00000154-kyodo-soci
小学校段階の英語教育について検討してきた中教審外国語専門部会は27日、全国一律に小学校で英語を実施する「必修化」を提言する審議経過をまとめた。今後、親部会の教育課程部会で授業時間数などを審議するが、導入への異論はほとんどなく、正式に必修化が認められる見通し。
成績をつける教科とはせず、5、6年生は週1時間程度、共通の教育内容を設定することを提言。コミュニケーション能力の育成を重視するとした。
中教審の最終決定を受け、文科省は2006年度にも改定する小学校の学習指導要領に必修化を盛り込む。
(共同通信) - 3月27日17時15分更新
◆斉藤兆史、『英語達人塾 極めるための独習法指南』 2005.10.15 子持ちししゃも
http://rakuda03.cocolog-nifty.com/shishamo/2005/10/post_34c0.html
英語が「ペラペラ」という人ほど、文法的にいい加減で、内容のないことしか話していない場合が多い。中身も「ペラペラ」なのだ。バイリンガルとか、帰国子女と言われてもてはやされる人の書いた英語は読めたものではない。これは私の実体験でもある。
われわれはそういう幻想を捨て、目指すべき目標を、日本人としての立場に立脚した中身のある英語を身につけることに替えたほうがよい。それが著者の主張の第一点。
第二点は英語を学ぶ際には、学校文法、発音記号をまずきっちり学ぶこと。現在、中学校や高校で行われているような、文法的な説明なしに表現を自然に覚えさせるという方法は、まったく実績のないもので、中学以降でそんな教授法をしても、英語ができるようになった人はいない。文法を知らなければ、応用が利かないのだから、教えられた以上の発展はないのだ。
何年も英語を勉強しているにもかかわらず、英語が出来ないのは学校で文法ばかり教えているからだ、という俗説は完全な誤り。むしろ文法を身につけられるほど勉強していないということだ。もちろん覚えた文法を使った会話や作文の練習の時間があまりに少ないこともいけない。
第三点。正しい発音で、文章を声に出して読む練習をすること。英語を母国語とする人の朗読を聞きながらシャドーイングすることで、発音、リズム、呼吸、間の取り方などをホーリスティックに身につける練習は、基本中の基本だ。物まねが下手な人は、センスがないと思うべし。噺家が師匠に稽古をつけてもらい、師匠の間を盗もうとするのと同じことだ。
第四点、本をたくさん読むことで、表現を覚え、それを使って作文をすること。その際、見たことのあるものだけしか使わないようにすべし。独創的な表現は、基本ができていないうちは使う必要はない。手垢のついた表現、常套句等と言われようと気にすることはない。本を読んだら、自分の考えを言い表すのに使えそうな表現をノートに書きためておき、それを組み合わせることで文章を作り出せ。
・・・植民地でもないのに、わざわざ貴重な時間を費やして、英語なんてものを学ぶ理由は、国際的に通用する言語を用いて、日本人が日本人としての立場から自己主張をすることで、世界に埋没することなく、世界と共存し、かつまた世界に貢献するため。ほとんどの日本人は、それを理解していないのが、浅薄な英会話ブームを生む原因になっているのだ。
現在の英会話ブームは、英語ができれば格好いい、国際人になれる、もしくは就職に有利なのではないか、という無根拠な確信に基づく浅薄なものだ。NOVAでスラングを覚えたり、イーオンで買い物の練習をするだけなら、まったく意味がない。
とにかく、英語を勉強する前に、英語で伝えるべきものを学ぶほうが先だ。英語が使えるようになっても、話すべき内容がないことに気づいたときの幻滅は恐ろしいものがある。英語を学ぶすべての人は、心しておかねばなるまい。
◆日本人に一番合った英語学習法 斎藤兆史(著)
https://bookweb2.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980545909
●「バイリンガル」は幻想に過ぎない
バイリソガルという言葉は、一般的には「二つの言語を同等に話すことができる人」を意味する。狭義には「二つの言語を母語話者のように操れる能力」を、広義には「ある言語の話し手が、もう一つの言語で完結した有意義な発話ができる時点」を指すこともある。
また、あくまで個人に注目した場合、バイリンガルの下位概念には、(たとえば、違う言語を話す両親のもとで育った子供のように)幼少期に同時に二つの言語を習得した「同時バイリンガル」、第一言語をある程度習得した段階で二つ目の言語を習得した「継続バイリンガル」、両言語の能力が等しい「均衡バイリンガル」、二言語のそれぞれにおいて母語話者と同等の能力を持っ「二重バイリンガル」、杜会的に恵まれた人間だけが選択の結果として二言語を習得した「エリート・バイリンガル」などがある。
だが、ここで重要なのは、これらはほとんど理論上の概念であり、本当にそれによって表現されているような能力が存在するのかどうかすら確認されていないということだ。とくに、多くの日本人が理想とする、話し言葉と書き言葉のすべてのレベルにおいて日本語と英語をそれぞれの母語話者同然に操る「二重パイリンガル」の人など、私自身、会ったことがない。
「バイリンガル教育」などというと聞こえはいいが、それが目標とする能力はきわめてあやふやなものである。もちろん、国際結婚の夫婦の子供などに、違う言語を器用に使い分げる子供はいる。だが、その能力は、その家庭の言語習慣やその子を取り巻く言語状況など、じつにさまざまな要件がからみ合って生まれた偶然の産物なのだ。しかも、その子供が成人するまでその能力を維持しつづけ、それぞれにおいて母語話者に引げをとらぬ言語活動を行なうという保証はどこにもない。
一方、子供をバイリンガルにしようと思って、日本語と英語の両言語で教育しつづけた結果、子供が失語症になってしまったという実例もある。カズオ・イシグロのように、両親ともに純粋な日本語話者でありながら、イギリスという圧倒的た英語環境のなかで育った結果、両親の努力の甲斐なく、日本語学習を嫌がって完全な英語の母語話者になってしまった人もいる。
子供であれぽ、きわめて自然に日本語と英語の二つを習得するはずだとの思い込みが蔓延しているが、実際の言語習得は、あくまで子供次第、環境次第なのである。そもそも、人間の脳はそれほど器用ではない。放っておけば、かならず安定した単一言語状況を求めるものだ。
第一、画一的な教育によって、高度な二言語話者が生まれたためしがあるのだろうか。英語で苦労した親にかぎって、子供をバイリンガルにしたがるものだが、どこに目標とする実例があるのだろうか。コミュニヶーション中心主義やバィリンガル教育を推進している人たちのなかに、日本人が目標とするような高度な英語の使い手が一人でもいるだろうか。
つまり、音声コミュニケーション中心の早期教育によって日英の完全な二言語話者を大量生産できると考えるのは、幻想以外の何物でもないのである。それに基づく有害無益な言語教育に一日も早く歯止めを掛けないと、二言語話者どころか、日本語も英語もまともに操れない日本人が大量生産される危険性がある。
日本人が理想とする英語の使い手がいるとすれぱ、それは英文著作で世界を感動させた新渡戸稲造、岡倉天心、南方熊楠、鈴木大拙であり、また一度も海外に出ることなく、母語話者の英語の試験をするほどの英語力を身につげた斎藤秀三郎である。彼らの英語学習を手本とするかぎり、まずは完全に日本語を習得したうえで英文法を学び、原書の多読を中心とした語学学習を行なうのが一番いいということになる。 (P131−P134)
斎藤兆史[サイトウヨシフミ]
1958年、栃木県出身。東京大学文学部英語・英米文学科卒業後、同大学院修了。東京大学大学院総合文化研究科助教授。専攻は英学。文学を中心とする英文テクストを言語学的に分析する研究を行なう傍ら、英語教育の現状に関する提言を積極的に行なっている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
(私のコメント)
3月の23日に英国のエコノミスト誌の記事を紹介しましたが、これはパソコンの機械翻訳任せの文章であり、大雑把な意味は分かるものの日本語としてはめちゃくちゃであり大変読みにくい文章だ。しかしこれを日本語として読みやすい文章に書き換える場合、かなり国際政治に詳しい教養がないと、いくら英語の達人でも翻訳する事は出来ないだろう。
中教審では小学校から英語教育を義務化するようですが、「ゆとり教育」以上の間違った方針だ。私自身の経験から言っても英語以前に覚えなければならない事が小学生には山とあるのですが、さらに英語を詰め込むとすると、さらに小学生の学習能力は低下してゆくだろう。
私の意見としては高校ぐらいで英語に興味がある人だけ集中的にやればいいことであり、それ以外では教養として文法程度の学習すればいいのではないかと思う。小学校や中学校で英語を学んでも他の科目の授業時間を減らすだけであり、有害無益な結果しかもたらさない。
私自身が英語教育の犠牲者であり、中学校で始めて英語教育に接しましたが、日本語での作文が満足できない状況で英語を学んでも身につくはずがない。ネット上でも「2ちゃんねる」などを見ても感覚的な言葉を発するのみで、すぐに「氏ね」などと切れてしまう人が多い。まとまった考えを文章にして書ける人が大変少ないのだ。
また、日本語を書くことのみならず読むことすらも学校を卒業するとマンガしか読まない人が増えてきた。携帯のメールでは長い文章は書くことは無理だし、読むことも困難だろう。ネット上でもこれだけブログなどがブームになっているのに、まとまった文章を毎日書いている人が非常に少ない。
「株式日記」も毎日原稿用紙で10枚以上の日記を書いていることになりますが、日記は一時間程度で書いているから、サラリーマンでも書けないはずはないのですが、書くべき記事を決めるのに大変時間がかかる。身の回りのことだけなら書けるけど半年か一年でネタが尽きてしまう。
だから、日本語環境ですらこのような状況だから、大人ですら英語を学んでも身につくはずがない。「日本人に一番合った英語学習法」を読むと、新渡戸稲造や岡倉天心などの英語の使い手が紹介されていますが、日本人が英語で本を書いて評価される事など例外的なことでしかない。
現代でも語学の達人が英米で10年以上学んでも、英語の文章を書いてもやはり英米人に文章を添削してもらう必要があるらしい。天才と呼ばれた南方熊楠ですらそうだった。それくらい日本語と英語とは距離があり、小学生が学ぶべきやさしい学習科目ではないのだ。
親米ポチ政権である小泉内閣がこのような英語教育を小学校から始めさせるのも、他に意図があるのであり、英語コンプレックスを植えつける事で日本人をアメリカの植民地人化するためのマインドコントロールとしての目的があるのだ。だから外人に話しかけられただけで英語で答えなければという強迫観念にかられてしまう。むしろここは日本なのだから外人に対して「日本語が出来ますか?」と言うくらいの気構えが欲しい。
今朝のワイドショーでもコメンテーターが「英語は国際語なのだから学ぶべきだ」と言っていましたが、みのもんたや久米宏といったテレビの有名なキャスターですら英語が出来ないのはなぜなのか?大テレビのアナウンサーに合格できる人は2000人に一人と言われるくらい難関なのですが、そういう人でも英語が出来ない。
メジャーリーグで活躍している野茂やイチローがアメリカで5年や10年アメリカで生活していても英語は話せない。英語で話しても正確に相手に伝わらないからですが、それくらい日本人が英語をマスターする事は難しい。ドイツ人やフランス人なら米英で何年か暮らせばマスターする事は出来るだろう。しかし日本語は言語的な繋がりはないから無理なのだ。
テレビでも英語の達者なタレントがぺらぺら話していますが、英米人から見れば間違いだらけの英語を使っているらしい。アン・ルイスというロック歌手がいましたが、日米のハーフですが英語も日本語も十分に話す事ができないようだった。宇多田ヒカルの英語の歌詞も酷いものらしい。アメリカに行ってスラングだらけの英語を教わっても意味がないだろう。
今でもアメリカやイギリスに語学留学している日本人は数十万人もいますが、仕事で英語を使えるような人はごく一部だろう。留学経験のある政治家や官僚は沢山いるのに英語を満足に話せる人はほとんどいない。外務省の在アメリカ大使館ですら新聞記事などの情報収集にはアメリカ人学生アルバイトを使っている。外務省のエリートですら英語が満足に出来ないのだ。
逆もそうであり、アメリカ人が日本語を学んでもご愛嬌レベルであり、話す事はできても読み書きは出来ない。語学の天才であったラフカディオ・ハーンですら日本語で書くことは出来なかった。漢字やアラビア語などは英米人にとっては宇宙人の文字である。それくらい外国語学は難解な学問なのですが小学生に習わせるのは無謀なのだ。