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(回答先: 正規兵に対する捕虜としての扱いはキチンとしてましたです 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2006 年 3 月 20 日 23:55:16)
やっとシネ・リーブル神戸で「白バラの祈り」を見てきました。この映画で描かれた取調等について次のように書いているBlogがあります。参考までに。
『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C666980225/E20060319225613/index.html
監督:マルク・ローテムント
出演:ユリア・イェンチほか
2005年、ドイツ
ゾフィー役の女優、ゲシュタポの尋問官役の男優、裁判長役の男優など数人が『ヒトラー〜最期の12日間』にも出演している。ちなみに副題の「ゾフィー・ショル、最期の日々」が原題の直訳である。
新発見の資料(チラシによれば東ドイツで保管されていたゲシュタポの文書とのこと)に基づく映画化、というテロップが出る。そのあたりの事情に通じていないので、史実をどの程度忠実に再現しようとしているのかについては判断を保留。その上で映画だけを観ての印象では、裁判長だけが飛び抜けてエキセントリックなのでただ一人を悪魔化してしまっているかのよう。映画の中心はゾフィーと取調官モーアとの対話であり、それにゾフィーと(自殺防止のため同じ房に監視役として入っている)女性政治犯との会話、裁判シーンが加わる(逮捕までの経緯はかなりあっさり処理されている)。共産主義者だという女性政治犯がゾフィーに好意的なのは当然として、取調官や傍聴席の軍人たちもがゾフィーのことば(ホロコーストの断罪など)にたじろぐ精神の持ち主として描かれている。また取り調べのプロセスそのものが、現代日本の警察よりましなんじゃないかと思わせるくらい理詰めで、史実通りかどうかはともかくゾフィーへの拷問など行なわれない(他の容疑者への拷問があったことを思わせるシーンはあるが)。というわけで裁判長ローラント・フライスラーただ一人が狂信的なことばを吐き続ける役を担っているのだが、ちょこっと調べた限りでは実際にこの裁判官は悪名高い人物のようであるから(映画の中では、かつて共産主義者だった負い目のために熱心に有罪判決を下す、とされている)史実に忠実な描写であろうかとは思われる。
もっとも、よく言われることではあるが、ローカルには紳士的にふるまえる人間たち(ゾフィーの着替え中に房に入ってきたことを同房の女囚に咎められた係官はだまって房を出てゆく、また死刑確定後には両親と―金網やガラスなどのしきりなしに—面会することまでできる)があのような結果をもたらしたことこそが、真の問題なのだということはできよう。「法」と「良心」の対立をめぐってゾフィーとモーアの間で交わされる会話がそのあたりを仄めかしている(両者の対話からは、宮台真司のブログエントリをきっかけにいくつかのブログで話題となった「亜インテリ」の問題と近いものを読みとることもできる)。
興味深いのは、ゾフィーらの毅然とした態度が必ずしも死を覚悟していたことから生じていたのではない、と思える描写の仕方である。映画によれば本来死刑までには99日の執行猶予が定められていた。ゾフィーらはその間に連合軍がドイツを「解放」する可能性を期待していたようである(連合軍の空襲を窓からながめて微笑むシーンなどから分かるように)。ゾフィーを過度に神格化しないためには有効な要素であろう。
実際にはドイツを「解放」しユダヤ人虐殺を止めさせたのは「白バラ」ではなく連合軍の武力であった。『ホテル・ルワンダ』のパンフレットに「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という文章があることを許せないらしい人々は、この映画についても「ゾフィーのようになろう、という呼びかけはナチズムの再発を防げない」と言うのだろうか。一人のゾフィー・ショルではヒトラーを打倒することはできなかった。一人のポール・ルセサバギナにはルワンダ虐殺を止める力はなかった。一人のアイヒマンがナチスを支えたわけではないのと同じことである。だから、「みんながゾフィーになれば、みんながポールになればそれでオッケーだよね」なんて人間が実際にいたんだったら、いくらでも罵倒すればいいと思いますよ。人間はゾフィーになるかアイヒマンになるかを真空の中で選択するわけではない。アイヒマンを選ぶことが圧倒的に容易であるような状況がかつて存在したのであり、そのような状況を生み出した歴史的経緯や社会構造に目を向けよ、という主張はそれ自体としてはもちろん正しい。しかし、それでもなお大虐殺( genocide であろうと massacre であろうと)を生むような状況が到来してしまうということはあり得る(そんなことがない、といったい誰が保証できようか)。その時、歴史的経緯や社会構造を強調する一方で個人的な倫理を問うことを禁じる人間は、「このような状況だからしかたなかったのだ」という主張に対して「そうですね、だから同じような状況が再びもたらされないようにしないといけないですね」と答えるよりなかろう。これに対して、ポール・ルセサバギナやゾフィー・ショルの選択を物語の題材とすることは、「しかたなかったのだ」がいかに切実ではあってもやはりいいわけでしかないことを告発する、という意味を持つのである。この点について町山氏は問題とされたパンフレット原稿の中で次のように述べている(なお私のこのエントリ―http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1437265980/E965979095/index.html―の後半も参照されたい)。
ポールを観客に近い人物として描くことで、『ホテル・ルワンダ』は「彼だって戦えたのだからあなたにもできるはず」と、観客を励ますと共に、逃げ場をなくす厳しい映画になった。
(kemu-riさんによる転載より。下線は引用者)
なんとしてでも「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という一文を認めたくない人々は、要するに観察者としてのみ大虐殺に“向き合う”ことを選ぼうとしているのではないのか。