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(回答先: ナチスドイツ下の「白バラ」の世界は、今の日本のことを思えば決して他人事ではない 投稿者 heart 日時 2006 年 3 月 18 日 21:31:25)
映画で意外だったのは、ゾフィーに対する取り調べや裁判が、あくまで「合法的」に行われたらしいことだった。
どこまで映画どおりだったかはわからないが、ナチスと言えばユダヤ人を理由なくすぐに撃ち殺すようなイメージ(映画「戦場のピアニスト」や、NHKの戦争番組など)が強かった私からすれば、拷問をするでもなく、机を叩く程度の威圧で、しかも法廷で裁判が行われた、というのは、意外だった。
拷問がなかったのはゾフィーが女性だったからかもしれないにしても、映画を見る限り、すべての手続きが法に則って進められたように見受けられた。
また、取り調べ役人(映画の紹介によるとあれはゲシュタポらしい;私の中のゲシュタポのイメージとあまりにも違って「紳士的」であったためにあれはゲシュタポとは違うと思っていたが)は、「私はこの法律に従ってあなたの対処を決めるだけだ、他に信じるものなど何がある?」というような意味のことをゾフィーに言っていた。
盲目的に法に従うことの恐ろしさを感じた。
当時のドイツの「法」がナチスの作った悪法であったことは言うまでもないことだが、実際が映画どおりとすれば、「法の秩序」のようなものが当時のナチス政権下でも「きちんと」存在したということだ。
これはある意味非常に恐ろしいことではないかと思う。
当時のドイツの悪事は、無秩序の混乱状態の中で行われたものではなく、「粛々と」法に則って行われていた。軍事的な規律を思えばそれが普通なのかもしれないが、これは、どんな法律が作られるかによって社会はどんな地獄にもなり得るということを示しているのではないか。
これは私にとっては大きなショックだった。
しかし、見方を変えれば、よい法律を作ればよい社会が作れる、ということも言えるのだろう。
法律というのは、天国も地獄も作りうる。
いかなる法律を作るか、また作らせるか、ということが、これまで思っていた以上に重要であるらしいことに気付けたのは私にとって大きな収穫だった。