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「嫌韓流」では、まあ、このような内容の本があっても良いかな、と考えていたKであるが、「嫌韓流2」を読んでみて、これは、少し行き過ぎではないか、と考えている。
本が売れる事への嫉妬とされても、つまらないので、「どうしようかなぁ〜?」などと考え、HPなどで意見を受け付けているのなら、直接掲示板論議をなどとも考えたりもしたが
http://propellant.fc2web.com/
を、見た限りでは「意見を受け付けてはいないようである」
で、仕方がないので、ここで、Kの意見を書いておく事にしました。
まず、1と2に共通するのであるが「嫌」韓流というのが、問題である。人という動物は感情によって支配される動物である部分を間違いなく有している。「アバタもエクボ」ではないが、好意を持って相手を見れば、むしろ見習うべき点であっても、嫌いという感情を持って受け止めれば、何でも「嫌に見える」のである。好きあって結婚した伴侶でも、感情の反転によって、「全てが嫌い、顔を見るのも嫌」という事になって離婚に至ると言う事もあるのである。対象となる相手は「同じ人間」なのに「今まで、好ましいと思っていた癖の一つ一つが、全て我慢できない癖に変化する」という事実は、人間は感情の動物である事の証だろうと思う。「真実の歴史を探る」という「嫌韓流」のテーマには正しい物があるが、「嫌」を冠した時から「偏見を持って、見てみましょう」という問題提起になってしまっているのである。
1の内容は「韓国人は反日感情を持つのが間違っている。日本は資金を投入して、インフラ整備をおこなったのだから、むしろ、感謝すべきである」というのが、おおよその流れである。
ここは、間違いである。日本の政策は「日本のために行われた」のであって「韓国(朝鮮)のために行われたのではない」のだろうと、Kは思う。
例えて言うなら「食うために太らせた豚」がいて、何かの都合で食えなくなった時、結果的に太ったのは「食うため(自分のため)」であり「豚のため」ではないわけだが、結果的に「生き残って太った豚」に「俺に感謝しろ」という論法は成り立たないだろう。
愛情を持って育てると「おいしくなる」とも言うが、その時の愛情とは一般的な「信頼関係」などと言うプラスの感情ではなく、鳥インフルエンザというような苦難が来れば、切り捨てて皆殺しにされる「おいしく育てよ」というような「愛情という手法」なのである。
多分だが、個々の人には「韓国を良くしようとして、懸命に頑張った。主人公の祖父のような人もいた」だろうが、それは、個々の人間性であって、日本国の政策では「日本の富国強兵策の一環として朝鮮植民地政策をした」のであり、決して「朝鮮国のためにインフラ整備を行ったのではない」のだろうと思う。自分のために行った政策を「相手に対し、このように評価すべき」というのは、まともな意見とは言えないだろう。
1にもあったが2に入ると特に「韓国人というのは、まともでない人種だ」という、韓国人の欠点の羅列が行われる。個々の事件や出来事では「まともでない韓国人」だって多いと思う。しかし、同じような目で「日本を見た外国人」の目で考えてみれば、「日本人はトンでもない人種だ」というイメージの形成も成り立つだろう。良いところを探すと言う視点と悪いところを探そうという視点では「イメージ形成的には大きく違うのである」
例えば「火病」だが、イメージ的には「切れた状況(異常興奮状態)」であり、これは「韓国特有の精神疾患」と紹介されて(ただし、一種の躁鬱病で異常興奮というのは火病の言葉のイメージであり、厳密には別と紹介もされている)。1では在日韓国人の友人、2では韓国のリーダーが発作を起こすが、このような異常興奮は「日本人だって、起こす事がある」
韓国人の方が多少、興奮しやすい人の比率が高いのかもしれないが、人種による先天性の物ではないような気がする。Kの考えが正しければ「これは、イメージによるレッテル貼り」であろう。
竹島問題と従軍慰安婦問題は「ほとんど論証らしきものも示さずに、一方的に結論が決めつけられている」とKは思う。
竹島問題は「韓国側にも言い分はあるのだろうが、日本固有の領土だ」と韓国側の言い分には「全く触れないで、結論に至っている」気がする。
従軍慰安婦問題は「多数証言者はいるが、物的証拠はなく、証言には信憑性はない」と言うのが全体の流れである。勘違いされると困るのだが、「証言が立証されない=事実がなかった」ではないのである。陪審員制の裁判であるなら、十分に「有罪判決」になる証言者は存在するもの事実なのである。「なかったという立証もされていない」のだから、なかったという話の展開は詭弁である。
2の229ページでは「当時を知る人がいなくなったので、捏造された歴史観を作ろうとしている」という主旨の論理展開がされているが、それは日本側もだと言える。「従軍慰安婦問題は、当時の証言者が少なくなって、真実の解明がし難くなった最近になって、なかった」と騒いであるのである。本気でそう思うのなら50年くらい前に騒ぐべきだったのである。
国旗国歌に反対する者を「マルクス・レーニン主義および北朝鮮の主体主義を信奉する反日思想」という事も書かれているが(2の135)、まあ、一部にそのような人もいるかもしれないが、今日日、北朝鮮を信奉する人はごく少数と思える。イメージによるレッテル貼りであろう。
「愛国心」という言葉がある。Kは愛国心とは「日本を愛し、日本に暮らす人が一人でも多く、幸せになれる国造りをする心」だと考える。決して「天皇を中心にした、国体を守る」事ではないだろうと思う。
軍国主義に走りそうな流れに警戒する人は「平和主義者」であるが「反日主義者」というわけではないだろう。もちろん、そのための手法などでは疑問のある物もあるだろうが、日本を「悪くしよう」というのが「反日」であって「日本を良くしようと言う平和主義」は反日ではないだろう。
そのような意味では「嫌韓流」では「批判している韓国の体制」を日本に取り入れようとしているのである。
Kの考えでは「韓国は少し前の日本そのもの」なのだろうと思う。戦後の混乱期を乗り切るため北朝鮮では「個人崇拝による全体主義」を取り入れた、金主席は「日本の天皇陛下」を目指して、祭り上げられたとも言えるだろう。国をまとめるには英雄が必要だったのだろう。韓国も愛国新教育を行う事で、富国強兵を目指したのだろう。嫌韓流で指摘される多くの韓国人の「嫌な点」というのは「戦前の日本が行った政策に近い政策」によって生まれてきたのではないだろうか?韓国は「日本の歴史を再現してきている」のである。
文化を盗む事は許されない。と様々な盗用が紹介されているが「猿まね上手で、著作権の意識が低い」というのは「少し前の日本人の評価」だったのではないだろうか?
2の韓国のリーダー朴と主人公側のリーダー末行は「ともに、自国の富国強兵こそ、愛国心」という主張しているような気がする。双方が譲り合わなければ「歩み寄れない」のだろうが、どちらも「譲歩するのは相手側」との先入観に囚われ、相手を否定するという理論武装をしているのである。
嫌韓流は「韓国の日本から見て、嫌と思う部分だけに注目し、嫌悪感を増幅する」という手法によって形成されている。その目を逆にしてみれば「多くの良い点もある」のではないだろうか?
憎しみの増幅は憎しみの連鎖の悪循環を引き起こす、確かに、韓国には問題点も多いだろう。しかし、それは未発達な部分かもしれない。それに合わせて「日本が戦前のような国体主義に向かうのだけは間違いだろう。」
それは、日本人が「嫌韓流で描かれている、嫌な韓国人と同じようになろう」と主張しているのと同じではないだろうか?