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(回答先: >愛とはすなわち「ほどこしもの」 投稿者 heart 日時 2006 年 3 月 16 日 00:06:44)
に尽きます。
この阿修羅でこの分野に一番深い造詣の持ち主といえば私はデラシネさんと思います。
と、「探して読め」では親切さが足りない、即ち「愛」が少ない(笑)でしょうから少しだけ。
hertさんの仰った言葉
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もちろん、誰だって自分が可愛いですし、
人を愛する時、その相手から愛されたいと思う気持ちがあるのは否定できないと思います。
しかし、相手から愛されなくても、どうしても愛さずにはいられない、という感情も存在し得ます。そういう愛は、いわゆる「無償の愛」といえるのではないかと思います。
「報われなくても愛し続ける自分」に酔うのはちょっと違うかもしれませんが。
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報われることを意識している段階の感情は「愛」とは呼べません。「愛もどき」です。
愛とは報いを求めようとする気持ちの有無など無関係。「無償の愛」というのは馬から落ちて落馬したと同義で「愛はそもそも無償」なはずです。
で、なぜ報いを求めないように自然に考えてしまうかといえば、自分が可愛いと思う感情と同じかそれ以上に相手を可愛い、大切、尊いと思う感情だからでしょう。つまり自分が可愛い思ってしまう感情は相手の可愛さ、大切さ、尊さに気が付いていない未熟者なわけでして、相手が自分と同じかそれ以上に大切で尊いと感じるということの究極の姿は「自他の区別が無い」意識の状態です。
相手が大切なら守るのは当たり前、手を差し伸べるのも当たり前。これが愛の関係です。その点、偽善のように偽の愛は必ずリターンを計算して行われます。「寄付、施し」などは「自分にとって僅かな物質や金銭で、施す気持ち良さなど無形のリターン求めていたりします。」行動は似ていてもその行動の意識(無意識も含めて)が偽善、偽愛では全く逆です。
なぜこのようなことになるのかといえば、「相手の微笑む姿を見ると嬉しくなる」というそれこそフリーエネルギーのような現象がありますが、実はこれこそが「愛に自然に気が付くように神様が予め備え付けておいて下さった」特殊装置です。これは続けるほど減少せず拡大増幅してゆくという性質があります。この世の姿を「物質の寄せ集め」と捉えることしかできない人にとってはフリーエネルギー的な関係は成立しませんから、自分と他人(動物植物も含めて)は利害関係でしか考えられません。すると必然的に損得で計算します。ここには「愛」はありません。見えないものの中にこそ宝は隠されていて、人生はその宝物に気づく「場」ではないかと私は思ってます。
とはいえ、問題なのは「偽善」のように「偽愛」が蔓延っていて、本物と偽者の区別の付く人はそれほど多くないということでしょうか?
「偽愛」とまで言わないまでも本物ではない「愛」には「情」があります。長く付き合えば「情がわく」という奴です。世間で多くの人が感じている「愛」の多くは実は本物ではなく「情から変異した愛もどき」ではないかと私などは思っています。即ち、そういう人は「本当の愛」を知らないから自分の知っている「愛に近いもの」を「愛」と思い込んでいる・・・そんなところではないでしょうか。