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Kは思うのだが、モラルは倫理観というのが分かりにくくて誤解を生むのだろうと思う。
「倫理観とはなんぞや?」と問われた時、多くの人は「ハテ?」と思うのではないだろうか?
「相手に不快感を与えない事」というのは礼儀(エチケット)に近い意味合いであろう。ここを小泉改革は目指している「形式的な礼儀」などは社会を維持するためには意味はないのではないだろうか?
「45度のお辞儀」とか「形式的な挨拶」などを「気持ち良い」と感じる人はいるだろうが、心がこもっていなければ「単なる詐欺の前振り」とも考えられるだろう。「人を外見だけで判断してはいけない」と教育しながら「整形美人を奨励する」ようなものだろう。外見だけを取り繕うという考え方は詐欺の一種である。
間違った事を行おうという人を諫める。というのは「反対する」という行為となってあらわれる。人間誰でも「思い込み・予断・偏見」等に憑かれる場合がある。錯覚とも言うが、神でもない限りは全ての情報を正確に把握できる訳がないのだから、人間は「常に不完全な情報を元に判断をしている」のである。表面的には「反対」であっても、その人を嫌いだから反対というのと、その人のためを思って反対というのでは180度違うのである。
表面的な儀礼の仕方を法律で縛るというのが「小泉立法府」の方向ではないかとKは考えている。証券取引法も改正されるようだが、「法で規制するのではなくモラルを高める方が有効」であることは間違いがないだろう。
法など「被害者が訴え調査した結果、その行為は悪意によって行われた時は有罪」の一つでも良いくらいである。細々とした法に抵触していなくても「あきらかな悪意」が認められれば、それは「悪い行為」なのである。それを細則の文字面に拘るから改正改正のツギアテのようなことになる。
社会貢献というものがある。一方個人主義というものもある。それは巧くバランスを取る必要があるのだろうと思う。その中でモラルというものを考えてみると「協調性」になるのではないだろうかと思う。
肉食獣が際限なく草食獣を食い尽くしてしまえば共倒れになる。人間も個人主義者であろうと「社会を破壊してしまえば生きてはいけない」のである。共生と協調をもっと考える必要がある。それに意を介さないというのが「モラルがない」と言う事だろうと思う。