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駒大苫小牧高校が元野球部員の不祥事で春の選抜の出場を辞退するそうである。
野球部の監督と校長の辞職は「教育者としてのリスク」という意味から言えば、辞職が妥当かどうかは問題としても、指導者として「責任がある」と言う事は仕方がない部分もあるだろう。
しかし、現在の野球部のレギュラーには「何の責任があるのだろうか?」
人間というのは基本的に一個の独立した人格を持っている。その中で、多数の人員が集まれば一定数の不良な行為を行う者がいるのは当然だろうと思う。
それは野球部員であっても例外ではないだろう。喫煙行為をしたりするのは思春期では「興味本位の遊びの一種」として「決して推奨されるような代物ではないが、誰にでも多少は存在する欲求」なのだろうと思う。誰にでもある欲求であるからと言っても「その行為が他人に害をなす」ような詐欺泥棒などであるなら、許される事ではないとも思うが、成人ならば許される行為に留まっているのなら、厳重注意くらいで「再発防止」を自覚させるのが必要という「本人の自覚」の範囲の不良(犯罪とは言えない)行為である。
それでも、日本は法治国家であり、喫煙は未成年にとって「自分の体に有害」であることを考え合わせれば、教育者もしくは親権者の責任を問うのまでは仕方がない。
しかし、同じ野球部に在籍した「後輩」とかにどのような責任があるのだろうか?
連帯責任という物を、すぐに持ち出す者がいる。
確かに「その人が行った事によって、他人に迷惑が掛かる」という意識を持たせる事は、その人の不良行為のブレーキになるという部分はある。核における「抑止力」と同じように「心理的に、起こさせない方法」としては効果があるだろう。しかし、実際に起こってしまった場合に「実際に連帯責任を取らせる」としたら「何の罪もない人の罪を咎める」という部分の方が大きいだろう。これは、法の施行側として「抑止政策の失敗」という意味であり、リスクを負うべきは「同僚とか後輩」ではなく「連帯責任という抑止力政策を使用しても不良行為を止められなかった、法の施行者」であるべきである。
「個性を生かしたゆとり教育」という方向性があるが、実際に日本で必要とされ、教育等で育てようとしているのは「文句を言わず、上の言うとおりに働く、イエスマン」である。野球部で言えば、才能のない奴は「ベンチや応援席で声いっぱいの応援をしてくれるだけで、一般生活は品行方正で、目立った行動をして、足を引っ張る事のない、その他大勢でいてほしい」と言う事だろう。
どこにも「個性を生かしたゆとり教育」などは存在しない。国が求めているのは「国の奴隷である国民」と言う事である。
連帯責任という物を「過去から行われている事だから」とかいう思考停止で、何も考えずに容認してしまう事が、大きな問題なのである。
その上で「駒大苫小牧高校の選抜辞退」が「良い選択もしくは妥当な選択」なのか考えようとする人が多くならない限りは「この世は全く良くならないだろう」と思う。