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(回答先: Re: 『「白か黒か。白でなければ黒である。」これが目くらましの論法であることは言うを待ちません。』面白い言葉ですね。 投稿者 Sirent Tears 日時 2006 年 9 月 27 日 22:26:38)
「白か黒か」の論理は日本的な感性とは無縁なばかりかそれを破壊する
Sirent Tearsさん、レスありがとうございます。「ガンダムSEED Destiny」は残念ながら見たことがありませんが、こちらスペインでも日本のアニメは人気が高く、アニメ番組は基本的に米国製と日本製で2分されています。あまり見ないのですが、たまに暇にあかせてアニメを比較してみて面白いことに気付きました。
ごく最近のものはどうか分かりませんが、昔からある、例えば「アラレちゃん」「ドラエモン」「キン肉マン」「ドラゴンボール」などと、同系統の米国製の漫画を比較してみると、米国製の場合「敵と味方」がはっきりしているように思います。日本のアニメの場合、最初は敵であった者達がいつの間にか次々と味方に変わります。米国アニメでブルートはいつまでたってもポパイの敵であり、腹ペコのコヨーテはいつまでたっても足の速い鳥(名前を忘れましたが)の敵なんですね。
だから逆に言えば「キン肉マン」や「ドラゴンボール」などは次第に話がとりとめもなくなって行き詰ってくるのでしょうが、伝統的に日本人が持っている感性は「敵か味方か」「白か黒か」の論法とは根本的に対立するものではないのか、などと感じるときがあります。もちろん宮崎駿のアニメは一神教的な「神と悪魔の対立」とは全く無縁の世界です。
お話の「ガンダムSEED Destiny」などは比較的新しいアニメでしょうが、日本文化の根底にある感性が次第に一神教的に修正されてきているのかな、などと考えたりもします。そうだとすれば恐ろしいことです。これこそ精神の破壊です。
しかし、ひるがえって考えてみると、欧州人でもキリスト教以前の多神教世界の感性をその感覚のどこかに残しているはずであり、日本アニメの人気もその辺と関係あるのかな、というような気がします。スペインやフランスなどの地中海岸には昔から祭りの中で動物の皮やマスク、ハリボテなどをつけて悪魔になって踊る行事があるのですが、これはひょっとしてキリスト教以前の地中海世界であがめられていた神々の変わり果てた姿なのかもしれません。それらの悪魔は民衆には人気があるのですが、それは決して「悪魔主義」ではなく、むしろ善悪の混交したトリックスター的な神々の姿を現在でも心の奥底で民衆が求めているのではないか、ふとそんな感じすらします。
「白でないものはすべて黒だ」という論法はやはりキリスト教が地中海とゲルマンの多神教世界を制覇したときに盛んに用いられてきたのでしょう。その際に盛んに強調されたのが「キリスト教徒に対するむごたらしい迫害」です。そしてそれは、イベリア半島の「レコンキスタ(イスラム教徒からの領地の奪還)」が順調に進み、十字軍が本格的になるゴシック時代に非常に強調されました。バルセロナにあるカタルーニャ美術館にはゴシック時代の宗教絵画が数多くあるのですが、もう「コイツら、マゾヒストか?」と思うくらい、血にまみれた殉教者への迫害の様子が描かれています。「キリスト教徒がいかに被害者であるのか」を、これでもか、これでもか、と叩きつけてきます。すでに十分に権力を握っているにも関わらず、です。
そしてその後にユダヤ教徒、イスラム教徒の追放、キリスト教化の徹底と異端審問の歴史が始まります。一神教の精神を徹底させるときに必要なものはまず「迫害と殉教」、つまり「被害者」になることであり、「異教徒や不信心者」に「加害者・迫害者」の汚名を着せることによって脅迫し、そして人々に殉教者たちを聖人とあがめさせることによってその精神を縛り付けていく。私はいわゆる「ホロコーストの神話化」の起源はむしろこの時代のキリスト教にあるのではないのか、と疑っています。
対照的なのが日本での仏教の広まり方です。確かに政治支配者(征服者)お抱えの宗教としてやってきました。しかし、新来の仏たちは、最初は様々な軋轢があったのでしょうが、次第に古来の日本の神々との共存を望んだだけでなく、非常にユニークな関係を結びました。京都の清水寺の境内に地主神社(じしゅじんじゃ)というのがあるのですが、要するに古来の神々は地主さん、つまり土地のオーナーであり、仏たちはテナントとして契約しているのですね。これは古くからある寺院、特に密教寺院ではどこにでも見られるものです。この共存の仕方は非常に面白いものです。
インドから渡ってきた弁才天や大黒天などは日本の神々の準会員として受け入れられ、カーリー神(ダキニ天)やハーリティー(鬼子母神)などの残虐な女神たちは福徳をもたらす神々としてあがめられます。大黒天にしても元々は破壊をもたらす恐ろしい神でした。そこには絶対的な善も絶対的な悪も無く、「白と黒」「迫害と殉教」「神と悪魔」「正義と邪悪」などの二分法は存在できません。(浄土真宗と日蓮宗はちょっと違うかな、という感じはしますが、それでもやはりまだこういった日本的な感性の範囲内で活動しているのでしょう。)
日本製アニメの奥底にはそういった感覚が無意識のうちに流れているのかもしれません。そしてそれが欧州人の心の奥底にあるものにも共鳴しているのかもしれません。このような世界のとらえ方は別に日本だけではなく、アジアの本来の感性でしょう。「白か黒か」の論法を打ち破りそれを克服する哲学を作るだけの能力は私にはありませんが、日本人でも中国人でもインド人でも良いから、誰かそのような作業を成し遂げる思想的天才が現れてくれないものかな、と願っています。