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アンネの日記・焼却事件 背景に極右の偽物論―「毎日新聞」
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投稿者 天木ファン 日時 2006 年 9 月 18 日 15:00:19: 2nLReFHhGZ7P6
 

地球最前線:アンネの日記・焼却事件 背景に極右の偽物論

 ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の象徴として知られる「アンネの日記」への極右の攻撃がドイツで執ように続いている。今夏、極右とみられる男性が日記を燃やす事件があり、地検が捜査に乗り出した。背景にはドイツの政府見解が、日記の信ぴょう性を疑う極右の宣伝に悪用されている事情がある。ようやく政府は見解を修正したが、「遅きに失した」との批判も出ている。【プレツィエン(ドイツ東部)で斎藤義彦】

 ◇現場警官「捜査必要ない」

 ◆「ナチと同じ」

 「すべてウソだ」。若い男性がキャンプファイアーに「アンネの日記」を投げ入れた。日記はあっという間に燃え上がったという。旧東独マクデブルク近郊の小都市プレツィエン(人口約980人)。今年6月24日夜、市内の広場で行われた夏至を祝う祭りで、参加者の男性が突然、「イラク戦争は石油のためだ」と叫んで米国旗を火に投げ入れた。続いて別の男性が「くだらない本だ」と日記を燃やした。

 警察は扇動罪の疑いで24〜28歳の男性3人に対する捜査を開始。メディアも大きく報道した。ドイツではナチスが33年、ベルリンで「反ドイツ的」とするマルクスやケストナーの本を燃やしており、ホロコーストの象徴である日記の焚書(ふんしょ)は社会に強い衝撃を与えた。ベルリンの「アンネ・フランクセンター」のヘッペネル所長は「ナチの繰り返しだ。背筋が寒くなった」と話す。

 男性らは関係者に「日記は読んだことがない」と語る。地元でサイクリングツアー客の案内所を運営するなど、村おこしに熱心な青年たちだったという。一方、3人も所属する、夏祭りを企画したグループは、前身が極右として内務省の監視を受けていた。90年代末には町で極右が集会も開いている。「ホロコーストを否定する勢力が背後で焚書を演出したのではないか」とハルビック市長はみる。

 男性の一人は毎日新聞の取材に「仲間から口止めされ何も言えない」とだけ語った。警察や地検の聴取にも黙秘を続けており、捜査は難航している模様だ。

 ◆東西に温度差

 警察は事件当日、祭りを訪れたが、男性らに事情も聴かずに帰った。3日後、住民から指摘を受け、ようやく捜査に着手した。ドイツではホロコーストの否定は扇動罪など刑事罰に問われるが、50歳代の警官2人は「アンネの日記」を知らず、捜査の必要性を感じなかったという。

 プレツィエンのあるザクセン・アンハルト州では05年、極右による刑事事件が1100件と前年の約1・5倍に増えた。同州内務省は「日記を知らなかったのは一部の警官だけだが、初動が遅れるなど捜査に欠陥があった。研修を行い捜査員が極右の問題に敏感になるようにしたい」と話す。

 背景には旧東独社会の影響もありそうだ。東独でもホロコーストを知ることは重視され、日記も出版されていた。しかし学校では必読書とはされず、読まない生徒も少なくなかった。「東独ではすべてが上から押し付けられて、市民はナチや虐殺について深く考えようとしなかった。だから極右に一見まともな理屈を言われると受け入れてしまう」と地元のホルツ牧師は話す。同牧師ら地元の有志は、日記についての展覧会を開くなど、地道な啓発活動に取り組むという。

 ◇政府見解、悪用され修正

 ◆攻撃50年以上

 日記への攻撃は初めてではない。日記が52年に世界的なベストセラーになった数年後から「父親の作り話だ」などとする批判が右翼からたびたび寄せられた。

 76年、ドイツ北部ハンブルクで日記をニセモノとするビラを配った男性がひぼう中傷罪で罰金刑を受けた。この控訴審でハンブルク地裁はドイツ連邦警察庁に日記の鑑定を依頼した。係官はスイスで存命だった父オットー・フランクを訪ね、紙とインクを鑑定。80年、紙は当時のものと断定したものの、「後に入れられた訂正個所の文字の一部は、戦後51年以降に販売された黒、緑、青のインクで書かれた」との見解をまとめた。これを極右が利用、「すべてウソ」との宣伝を行ってきた。

 実は「アンネの日記」には最低三つの版がある。アンネは父にプレゼントされた手帳のほかに、紙不足の影響で、雑用紙に日記を書いていた(A版と呼ばれる)。44年、オランダ亡命政府が、ナチによる占領の記録を日記として残すよう呼びかけたのをラジオで聞いた作家志望のアンネは、日記を自ら編集し直した(B版)。さらに戦後、父親が47年に出版する際、母親への中傷や性的な描写など3割程度を除き、一部を修正して編集し直した(C版)。出版の際の編集で加えられた2枚の紙片をドイツ警察庁が見つけ、インクの違いを指摘したのが真相だ。

 ◆「黙認が過ち」

 市民団体は長年、ドイツ警察庁に鑑定を公開し見解を修正するよう求めてきたが、警察庁は「依頼主だけに知らせる」と門前払いを続けてきた。

 アンネ・フランクセンターは旧東独での焚書事件後、すぐに警察庁と交渉し、事態を憂慮した警察庁側も7月末、当時の鑑定を「例外的」として公表した。さらに「鑑定はアンネの日記の信ぴょう性について疑義をさしはさむようなものではなく、警察庁はそのような方向の憶測とは意見を異にしている」との見解を発表した。

 センターのヘッペネル所長は「警察庁は極右が悪用するのを黙認する誤りを犯した」と批判する。ただ、今回、新見解が出されたことで、「日記の信ぴょう性は揺るぎないものになり、今後攻撃はやむのではないか」と予測している。

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 ◇アンネの日記が世に出るまで

 ドイツ・フランクフルト生まれのオランダ系ユダヤ人、アンネリーゼ・マリー・フランクは、ヒトラーが政権を掌握した翌年の34年、身の危険を感じて一家でオランダに移住した。42年、姉マルゴーが収容所送りのリストに載せられたため、父の仕事場に設けられた隠れ家に移り住む。しかし44年8月、密告を受けたナチ秘密警察が一家を逮捕。アンネはドイツ北部ベルゲン・ベルゼン強制収容所に送られ、45年3月腸チフスで死亡した。

 日記は父親に手帳を贈られたことをきっかけに42年6月12日から書き始めた。架空の友人にあてた手紙の形式で、夢や恋愛、友人、家族との関係などをみずみずしい感性でつづっている。日記は逮捕される3日前で終わっている。手帳や日記用の雑用紙は秘密警察が散乱させたが、従業員が集めて引き出しに保管し、戦火も逃れた。戦後、虐殺をただ一人生き延びた父親が日記を発見。作家志望だった娘の遺志を引き継ぐ形で出版した。【ベルリン斎藤義彦】

毎日新聞 2006年9月18日 東京朝刊

http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/europe/news/20060918ddm007030022000c.html

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