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参考資料
セファルディム系ユダヤ人
05国際開発論a 関岡教授
1492年 スペインのユダヤ人追放
1492年、スペインに残っていたイスラム・アラブの最後の砦、グラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタを完了したスペイン政府は、直ちに国内のすべてのユダヤ人を国外追放した。ユダヤ人の系統は、大きく三つに分かれる。
セファルディム(ヘブル語でスペインという意味)系
アシュケナ−ジム(ヘブル語でドイツという意味)系
オリエンタル系
である。
スペインから追放されたのは、もちろんセファルディムである。追放されるまでの間、約100年のユダヤ人迫害の歴史があった。
強制された改宗
スペインは711年以来、イスラム・アラブの支配下にあった。とくにその末期、セファルディム系ユダヤ人は幸せな生活を送っていた。しかし11世紀以降、レコンキスタが始まった。レコンキスタはキリスト教徒によるスペイン奪還運動である。そして13世紀半ばまでには、グラナダを除くスペインの大部分がキリスト教徒の支配下に入った。
キリスト教の支配下に入ったユダヤ人たちも、14世紀半ば過ぎまでは、比較的平穏な生活を送っていた。ユダヤ人たちはキリスト教に改宗するように迫られたが、暴力的なものではなかった。ユダヤ人改宗問題は、ロ−マ教会の管轄下だったが、当時のロ−マ教会はキリスト教内部の異端と戦うので忙しかったのである。
一方、政治権力者の王は、ユダヤ人を重宝していた。支配下に入った多数のアラブ系民族を治める場合、言葉の面からユダヤ人を使うのが便利だったからである。社会的にもユダヤ人の能力は必要だった。王の徴税請負人を務めた他、15世紀までは、宮廷医師のほとんどがユダヤ人だった。またユダヤ人は、当時としては先進的なアラビア語文献の翻訳者として、ぜひとも必要な存在だった。
ユダヤ人虐殺の始まり
そんな状況が変わるのは、14世紀も押し迫ってからである。高位にあったドミニコ会の修道士、マルティネス(Ferrant Martinez)が現れ、精力的かつ組織的に、キリスト教に改宗しないユダヤ人に対する地獄の業火を説いた。分かりやすくいえば、あくまでユダヤ教を捨てないユダヤ人を殺せと説いたのだ。あまりにも過激なマルティネスを、国王はたしなめたが、当時の国王の権力は教会には及ばなかった。国王の方が殺されてしまった。
1391年3月、セビリアでの祝祭日、マルティネスは、とくに憎しみをこめた説教でキリスト教徒たちを扇動した。激高した大衆はユダヤ人を襲い、略奪や暴行を行った。このときは1日の単発的な事件だったが、3ヶ月後の6月6日、マルティネス自身が指揮する暴徒がセビリアのユダヤ人を襲った。たった1日で4000人ものユダヤ人が虐殺された。その他のユダヤ人は、洗礼を受けることによって辛うじて命を取り止めた。ユダヤ教の宗教指導者は、命の危険がある場合、見せかけの改宗をすることを許した。
同じ年の8月5日、スペインで最大の人口1万人を誇るトレドのユダヤ人が襲われ、3000人が殺された。以来、約4ヶ月間、スペイン全土でユダヤ人襲撃が続いた。全部で3万人のユダヤ人が命を落とした。多くのユダヤ人は心ならずも洗礼を受け、一部は北アフリカへ逃げた。
ユダヤ人に対する、かくも激しい攻撃が急速に広がった背景は、国王の徴税請負人のほとんどがユダヤ人で、大衆の恨みを買っていたこと。また一部のユダヤ人が資産家だったためである。
マラノ問題
15世紀に入ると、少し事態は沈静化したようにみえる。しかし新しい問題が生じていた。1391年には、生命の危険からかなりの数のユダヤ人がキリスト教徒になった。その数ははっきりしていないが、殺された数、3万人よりは多かったと考えられる。
改宗した元ユダヤ教徒は、コンベルソ(改宗者)あるいは新キリスト教徒と呼ばれた。コンベルソの中から、ローマ教会のヒエラルキ−(階層社会)の中でスピ−ド出世した者も出た。教皇に次ぐ地位、枢機卿になった者も出た。無理もない。ユダヤ人は金融や財政に長けていたし、一方キリスト教会は、ある面では巨大な集金マシンだったからだ。
1400年代初め、20万人いたユダヤ人のうち3万5000人がコンベルソになっていたという。コンベルソの中には、時が経つにつれて、本気でキリスト教徒になってしまった人々もいたと思う。しかし中には、表面はキリスト教徒として振るまいながら、秘かにユダヤ教を守り続けた人々もいた。彼らは元の仲間のユダヤ人たちからマラノと呼ばれた。ブタという意味だという。コンベルソとマラノの区別ははっきりしないが、コンベルソは単にキリスト教への改宗者、マラノは、そのうち隠れユダヤ教徒と定義しておこう。
コンベルソが、キリスト教会のヒエラルキ−(階級社会)を急速に登っていくにつれて、旧キリスト教徒たちの妬みをかった。当然ながら旧キリスト教徒たちにとって許せなかったのはマラノである。
そればかりか、コンベルソのうち、本気でキリスト教徒になってしまった元ユダヤ教徒たちにとっても、マラノは許されない存在だった。彼らの心理は理解できる。ユダヤ教にかぎらず中東の一神教徒にとって、先祖代々の宗教を放棄することは、すこぶる気にかかることなのだ。それはもちろん、最後の審判で地獄に落とされるかどうかという点にかかる。
ユダヤ教徒からキリスト教徒に変わった人々にとっての最大関心事は、当然、キリスト教徒になったことにより、神の怒りをかってしまったかどうか・・・。もちろんその懸念を直接、解消する手段はない。そんな彼らにとって、表面的にはキリスト教徒になりながら、秘かにユダヤ教徒であり続ける元の仲間は許されない存在だったろう。なぜなら万一、自分が地獄へ落とされた場合、隠れユダヤ教徒だけが、その運命を免れる可能性が残るからだ。
マラノ摘発の嵐
1469年、カスティリアの王女イザベルとアラゴンの王子フェルディナンドが結婚した。二人は間もなく女王と王になった。スペインが事実上統一されたことになった。残る問題は、ただ一つ残っていたイスラム・アラブの拠点、グラナダ王国だった。
イザベルとフェルディナンドは、グラナダ王国を断固滅ぼす決意をした。そのためには、臣下の宗教的情熱をかき立てる必要に迫られた。二人はマラノ問題に決着をつけることにした。手段としては異端審問所しかない。異端審問所は、すでに13世紀初期、ロ−マ教会によってつくられていた。
イザベルとフェルディナンドは、ロ−マ教会と交渉し、スペインだけの王権の管轄下にある審問所をつくる許可を得た。1478年のことである。以来、恐怖の嵐がスペインを吹きまくった。突如として凄まじいマラノ狩りが行われたのだ。1479年から1481年までの3年間に、カスティリア南部のアンダルシアだけで、2万人の人々が生きながら火あぶりになったという。
1483年、トルケマダ(Tomas de Torquemada)という人物が、審問所の長官に任命された。トルケマダはコンベルソだった。トルケマダの下、審問はいっそう厳格化された。トルケマダがその職にあった18年間で、2000人のコンベルソが生きながら火刑に処せられ、3000人が死後死体か身代わり人形が焼かれた。そして3万7000人がキリスト教徒になることを受け入れたという。
1492年の追放
1492年1月、最後のイスラム・アラブ王国グラナダが滅び、レコンキスタが完成すると、同じ年の4月29日、スペインに住むすべてのユダヤ教徒を追放する布告が出された。猶予期間はたった3ヶ月だった。その間に、ユダヤ人は不動産や動産を処分し、携帯することが許された。しかし貴金属だけは、国外へ持ち出すことが認められなかった。そもそもイザベルとフェルディナンドが、この時期に、前からの懸案だったとはいえ、ユダヤ人の国外追放に踏み切ったのは、グラナダの戦費がそれ以外の方法では払えなかったからである。
1492年8月2日、最後のユダヤ人がスペインから去った。6~7万人がポルトガルへ、3万人が南部の港からイタリア、北アフリカ、オスマントルコへ、そして1万人が北方のナバル王国へ、向かった。
追放の理由
当時新興国だったオスマントルコのスルタン(国王)は、喜んでスペインから逃げてきたセファルディム系ユダヤ人を喜んで受け入れた。経済が興隆するからである。一方、経済の基盤、ユダヤ人を追放したスペインは、メキシコの銀で潤った16世紀を除くと、その後は衰退していった。エマヌエル・ウオーラスティンの覇権の移動である。
スペインが誤算したという説がある。統一を為し遂げたスペイン王国は、ぜひとも宗教的純粋性を実現したかった。そのためには、マラノ、隠れユダヤ教徒を根絶しなければならない。
マラノは元の仲間、ユダヤ教徒と混在して住んでいた。マラノがユダヤ教を捨てない理由がその点にあると考えた王権は、ユダヤ教徒すべてをキリスト教徒にしてしまえば、その問題が解決すると考えた。1492年4月に布告された追放令は、本気で全員を追放しようとしたのではなく、そこまで脅せば、大半のユダヤ人が改宗するだろうと期待したのである。
しかし実際には、スペイン王権の思惑は外れ、ほとんどのユダヤ人はあくまでも改宗を拒否し、スペインを去った。
世界史の大いなる謎
1492年にスペインから追放されたユダヤ人たちの行き先、あるいは消息はごく一部しか分かっていないが、一応
ポルトガル
オランダ
イタリア
フランス
オスマントルコ(含むバルカン半島)
北アフリカ
などへ逃げたとされる。
しかしこのとき、あるいは多少は遅れて逃げたであろう、コンベルソ、そしてマラノの行き先に関する情報は皆無である。彼らは追放令の対象になっていなかった。にもかかわらず、逃げたと推理するのは、
1) 彼らがユダヤ教徒と混在して住んでいたからである。数では少数派だった彼らは、多数派のユダヤ教徒が居なくなってしまえば、生活の基盤を失う場合が多かったであろう。その場合は、いっしょに逃げざるをえない。さらにマラノの場合には、審問の恐怖があった。
2) 一方、スペイン周辺国で、その時代の直後、出自不詳のキリスト教徒が現れているからである。
(中略)
救いに拘るキリスト教徒
マルティン・ルッターが宗教改革の火をつけたきっかけは、贖宥状(免罪符)の救いの効果に疑問を持ったことである。ルッターはなぜ救いに拘ったのか。
断定的かもしれないが、論理的に考えると、当時のヨ−ロッパで救いに拘らなければならない存在がいたとしたら、コンベルソしかいない。元ユダヤ教徒がキリスト教に改宗することは、地獄に落とされる危険を冒すことを意味する。その代償は「救い」しかない。天国行きの予約切符または保証書である。
にもかかわらず、その救いが、贖宥状などといった堕落の極限に貶められていたとすれば、絶望的にならざるをえない。どうしても贖宥状、そしてそれを発行している教皇やロ−マ教会を否定せざるをえなかったのだろう。
ルッター自身はドイツの農民出身であると強調していたらしい。しかしルッターが生まれたのは1483年。当時父ハンスと母マルガレーテは、鉱山での職を求めて旅行中だったという。ハンスは、その後マンスフェルトで職につき、生活を安定させることができたという。1483年といえば、スペインでマラノ狩りが始まった直後である。
ルッターは晩年、ユダヤ人を憎んで当時からひんしゅくを買う文書を、いささか狂気的に出していた。それが400年後、ヒトラーによって利用されるのだ。ルッターは、当初ユダヤ人に好意的だった。ルッターはユダヤ人をキリスト教に改宗しようとしたが、成功せず憎むようになった。図式は惚れた異性につれなくされ、可愛さ余って憎さ百倍。近親憎悪ほど激しい。
ルッターは本当にドイツの農民なのか、という疑問はさておき、カルヴィンの場合は、改宗ユダヤ人の可能性が濃厚である。カルヴィンはコーバンのフランス読みである。コーバンという姓はユダヤ人に多い姓である。とはいえ、カルヴィンが改宗ユダヤ人の子孫かどうかは、この際大した問題ではない。神の変身というテーマこそが重要である。カルヴィン派プロテスタンティズムの神は旧約聖書の神、つまりユダヤ教の神になってしまったのだ。
図式からいえば、かつて生き残るために改宗したユダヤ教徒がいた。彼らのうち、時間が経過するにつれ、もはや選択権が与えられてもユダヤ教徒に戻ることも好まなくなった人々がいた。その中から出てきた一部の人々が、キリスト教の内部にユダヤ的なキリスト教を創った。それがプロテスタンティズム、とくにカルヴィニズムという図式である。
ヴェ−バ−はこの図式を暗喩していた? カルヴィニズムから出たイギリスのピュ−リタニズムが、イギリスの新興の市民階級の宗教になり、彼らが革命を起こしたとき、彼らがラウンドヘッド(短頭)と呼ばれたことに、ヴェ−バ−は言及している。革命を巡って争った王党派とピュ−リタンは、民族が違っていたとまで示唆している。
以上は一つの推論にすぎない。歴史を考える場合、慎重に、一つの参考にすべきである。
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/ResDev/Develop/%8AJ%94%AD%98_2005/05%8AJ%94%AD%98_a/05%8AJ%94%AD%81E%83%86%83_%83%84%90l.html