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http://web.chokugen.jp/uozumi/2006/07/post_8757.html
第6回「無効な対立構図」
1週間ほど前、『マスコミ市民』という雑誌のインタビューを受けた。テーマは『冤罪と報道』。なぜメディアは冤罪を作り出してしまうのか? 当局のリークを無批判に垂れ流す姿勢に問題があると思うが、見解を聞かせてくれという趣旨だった。私はこう答えた。
「その質問に答える前にまずメディアとは何かという定義をはっきりさせておく必要があると思います。大ざっぱに言うと、メディアとは官庁から情報を仕入れて、売る企業体です。私の実感では新聞記事の7割くらいは官庁発の情報。その情報を伝えることが、新聞やテレビ局といった大手メディアの本質的役割なのです。メディアにとって、官庁は本来ならすごく経費がかかる商品の素材をただで供給してくれる、このうえなくありがたい仕入れ先なわけです。したがって、当局発の情報を無批判にメディアが受け入れているというよりも、そうすることがメディア本来の役割であり機能であると言った方がいいのではないでしょうか。当局の情報を批判的に扱うという視点は、本来的に言えば、メディアがもっている役割や機能ではありません」
我ながら、身も蓋もないことを言ったものだ。以前の私なら「メディアの本来的役割は国家権力の横暴をチェックすることだが、今のメディアは国家権力にすり寄りすぎている」と嘆いてみせただろう。
しかし、最近になって私の考えは変わった。従来の考え方の前提となっていた、国家権力VS.メディア・民衆という対立構図そのものが無効なのではないかと思い始めたのである。『マスコミ市民』編集者のインタビューに対し、私はこう付け加えた。
「日本のメディアは客観報道主義を標榜しています。この客観報道とはどういうものかと言うと、例えば新米記者が最初に書くのは交通事故の原稿なんですが、それは “何日何時ごろ、どこどこで○さん運転の乗用車とトラックが衝突して、○さんが死んだ”というパターンで始まります。そのあとにくるのが“何々署の調べによると”というフレーズで、事故当時の状況説明があり、これは最後に“何々署は事故の原因を△△と見ている”という形で締めくくられます。記者がその事故を取材してどう考えたかということより、当局の見方が大事なのです。このパターンは交通事故だけでなく、すべての事件・事故報道に共通しています。つまり客観報道とはぶっちゃけた話、当局依存報道のことなのです」
だから、当局が間違えれば、メディアも間違える。松本サリン事件の犯人と疑われた河野義行さんのケースはその典型だろう。
こうした当局依存報道を変革することは可能だろうか。私は既存の新聞社やテレビ局では無理だと思う。情報を独占しているのは国家であり、もっと具体的に言えば官庁だ。メディアはその官庁と民衆・私企業の間をつなぐ媒体にすぎない。である以上、メディアは必然的に官僚のコントロール下に置かれる。
「それじゃ、メディアの現状を変えることはいつまでたってもできないということではないか」。『マスコミ市民』の編集者がそう言いたげだったので、私はこうつづけた。
「先ほど官庁情報が7割だと言いましたよね。ということは残りの3割は官庁発ではないということです。3割とはいえ、民間情報を発信する機能をメディアは持ってますから、その部分を活用すればいいのです。民間情報をメディアに乗せる方法はただ一つ、商品価値の高い情報を発信することです。それをとてもうまくやったのは鈴木宗男さん。彼は、4年前にあれだけメディアからバッシングを受けながら『メディアは単なる媒体に過ぎない』ということを骨の髄まで理解して、今度は逆にメディアを利用して復活を果たしました。彼のやり方を学べばいいのです」
国家権力と一体化したメディアの現状を嘆いてばかりいても仕方がない。ない知恵を絞って、できる限りのことをやる。いま必要なのはそういうことではないのだろうか。
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