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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu130.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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昔は情報の生産は、新聞やテレビなどのマスコミ限られたが、
現代では個人が情報の生産を行なって競争が行なわれている
2006年10月29日 日曜日
◆過剰の経済学 10月28日 池田信夫ブログ
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/7a1ad2dce1f78f21fac28d0dbc33075b
クリス・アンダーソンのブログに、"Economics of Abundance"という記事が出ている。内容は『ロングテール』にも出ているが、要は従来の経済学が稀少な資源の効率的な配分を考える学問であるのに対して、ムーアの法則によって計算・記憶能力が事実上「自由財」になったので、こうした過剰な資源をどう利用するかという経済学が必要だという話だ。
これは、もとはジョージ・ギルダーが『テレコズム』でのべたことである。彼は「豊かな資源を浪費して不足するものを節約する」という経済原則にもとづいて、トランジスタを浪費する(Carver Mead)ことがマイクロコズム(コンピュータ世界)の鉄則であり、帯域が毎年倍増するという「ギルダーの法則」によって、帯域を浪費することがテレコズム(通信世界)の鉄則だと主張した。
この預言を信じて、ノーテルやルーセントは光ファイバーに巨額の投資を行い、JDSユニフェーズの株価は天文学的な額になったが、テレコズムの楽園は実現しなかった。「最後の1マイル」という稀少性が解決しなかったからである。だから残念ながら、いまだに経済学は正しいのだ。すべての資源が自由財になることがありえない以上、ある資源が過剰になれば、必ず別の資源が相対的に稀少なボトルネックになるから、重要なのは過剰な資源ではなくボトルネックなのである。
ムーアの法則でコンピュータの情報処理能力が自由財に近づいているというのは正しいが、問題はそれによって何がボトルネックになるかである。ハーバート・サイモン(1971)の有名な言葉を引用すると、
情報の豊かさは、それがそれが消費するものの稀少性を意味する。情報が消費するものは、かなり明白である。それは情報を受け取る人の関心を消費するのである。したがって情報の豊かさは関心の稀少性を作り出し、それを消費する膨大な情報源に対して関心を効率的に配分する必要が生じる。
資本主義社会の前提は、資本が稀少で労働は過剰だということだ。工場を建てて多くの労働者を集める資金をもっているのは限られた資本家だから、資本の稀少性の価格として利潤が生まれる。これは普通の製造業では今も正しいが、情報の生産については状況は劇的に変わった。ムーアの法則によって、1960年代から今日までに計算能力の価格は1億分の1になったからである。
これは建設に100億円かかった工場が100円で建てられるようになるということだから、こうなると工場に労働者を集めるよりも、労働者が各自で「工場」を持って生産する方式が効率的になる。それが現実に起こったことである。メインフレーム時代には、稀少な計算機資源を割り当てるため、ユーザーはバッチカードを持ってコンピュータの利用時間を待ったが、PCの登場によってボトルネックはユーザーになった。ここでは逆に、ユーザーの稀少な時間を効率的に配分するため、コンピュータは各人に所有され、その大部分は遊んでいる。
つまり情報生産においては、資本主義の法則が逆転し、個人の関心(時間コスト)を効率的に配分するテクノロジーがもっとも重要になったのである。だからユーザーが情報を検索する時間を節約するグーグルが、その中心に位置することは偶然ではない。資本主義社会では、稀少な物的資源を利用する権利(財産権)に価格がつくが、情報社会では膨大な情報の中から特定の情報に稀少な関心を引きつける権利(広告/狭告)に価格がつく。
20世紀の大衆消費社会では、こういう関心の配分は大して重要な問題ではなかった。規格化された商品を大量生産・大量消費するには、マスメディアで一律の情報を一方的に流せばよかったからだ。しかしロングテール現象が示すように、人々の真の選好は想像されていた以上に多様で変わりやすく、そこから利益を得る技術はまだほとんど開発されていない。マーケティングというのは、ハイテクとは無縁のドブ板営業だと思われてきたが、これを合理化することが今後のITのフロンティアの一つになろう。
(私のコメント)
現代の日本は工業化社会から情報化社会になったと言われていますが、人材の育成や活用方法は、いまだに工業化社会の価値観のままである部分が多いようだ。学校などの教育に関してもいまだに詰め込み教育であり、そのまま社会に出されてもホワイトカラーの職場にはあまり役には立たなくなるだろう。
高度成長期ならまだ工業化社会のやり方でも通用した事も、低成長で情報化社会が本格化してくると規格品的な人材では企業も社会も停滞してしまう。工業化社会では長時間勤勉に働く事が美徳でしたが、情報化社会では優れたアイデアや創造性や正確な情報分析や予測などが重要になってくる。
90年代からの日本が長期にわたる停滞も、企業が工業化社会の価値観から情報化社会の価値観に転換できない事が原因の一つになっているのだろう。もちろん全部が転換が必要なのではなく、情報化社会でその役割をになえるような人材はごく一部に過ぎない。
大東亜戦争の勝敗を見てもアメリカ軍が情報を重要視していた情報化社会だったのに、日本軍は兵士の敢闘精神ばかりを重要視した工業化社会だったのだ。アメリカ軍は一番優れた能力の人材を情報部門に置いたが、日本軍は作戦部門に置いた。いくら優れた作戦を立てても戦況の情報が分からず分析も間違っていたのでは勝てるはずも無かった。
戦後も情報の重要性が叫ばれていても日本政府には情報部と言うものがいまだに無い。外務省も人数が少なく大使館も無い国がかなりある。大使館はあっても情報収集には機能していなくて本国からのVIPの接待に負われている。そうなってしまうのは政府も外務省も情報化社会の意味が分かっていないからだ。
池田信夫氏のブログでもコンピューターを例にして、昔は大型の汎用電算機を割り当てで使っていたが、現在では個人が高性能のPCを持って使うようになって社員個人個人の働き方が大きく変わってきた事を述べている。こうなると情報化社会も本格的になり、個人がPCを使いこなして個人単位で情報を集めて分析して発信できるようになった。
一番端的な例が新聞やラジオやテレビなどのマスコミですが、昔は大勢の記者が記事を書き、大型の印刷機械で新聞を印刷して、全国に配置した配送所から各家庭に配られていますが、今では個人が記事を書き、個人がインターネットにアップして全世界の人がそれを読むことが出来るようになった。つまり画一商品を大量生産してトラックで運ぶ時代から、多品種少量生産の商品を個別に配る時代が来た。これをロングテール現象という。
テレビにしても大テレビ局が画一的な番組を作って全国ネットで放送する時代から、ユーザーが番組を作ったりテレビで放送された番組を再編集してユーチューブなどにアップして数百万もの番組が常時見られるようになった。それだけの需要があるからユーチューブのサイトは2000億円で買われましたが、大マスコミの時代は終わったのだ。
「株式日記」も個人の時事解説サイトに過ぎませんが、大マスコミを批判しているのも、大マスコミ自身がこのような時代変化を自覚していないで、むしろ著作権などを楯にユーチューブなどにアップされたものを潰している。ネットの中でもコピーされたり引用されたりする事を嫌う人がいますが、サイトやブログを広めるためにはコピーや引用は営業の一種であり、「株式日記」でもリンクフリー・引用自由と最初からホームページに表示している。
しかし個人が情報を発信するようになるとどこから情報が出たのかが問題になりますからコピー元や引用元などはきちんと表示する必要がある。このようなブログ同士の競争は一種の営業なのでしょうが、アラシや嫌がらせのコメントなどを送りつけて営業妨害する人もいる。
「株式日記」はかなり過激な事を書いて毒のある記事も多いのですが、アラシや嫌がらせのコメントは非常に少ない。読者のレベルが高いからでしょうが、政治や経済や外交などに関心を持っている人は欧米に比べて限られる。しかし情報化時代は個人が一人ひとりレベルを高めていかないと日本全体が情報化時代に適応できなくなる。大マスコミに頼っている時代は終わったのだ。
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