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2006.9.23(その1)
森田実の言わねばならぬ[372]
マスコミを信用してはならない――日本のマスコミは政治権力と合体し国民を支配し圧迫する凶器と化した【3】
続・9月21日の各紙社説にみる大新聞の批判精神の欠如と大局観の喪失
「己を制し得ぬ者は自由人とはいえぬ」(ピタゴラス)
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昨日(9月22日)の本欄で紹介した読売、産経、日経3紙の社説に比べると、東京、毎日、朝日3紙の社説のほうはやや批判精神が旺盛であり、「自由な新聞」らしさを少しだけ発揮している。
とくに「東京」の社説は、歴史認識問題を真正面から取り上げている。見出しは「時計の針をどっちに回す」。「東京」社説は「安倍氏はきちんと所信を語るべきだった」と、次のように安倍氏を批判している。
《破滅的な太平洋戦争へ至る、戦前の歴史評価、戦争責任の認定に、安倍氏はいぜん言葉を濁し続ける。首相としての靖国神社参拝問題しかり。1995年の戦争謝罪の村山富市首相談話の扱いも、だ。私たちは、憲法でも、教育基本法でも、戦後日本人が積み重ねてきた議論をいともたおすくお蔵入りにして次へ進もうという、安倍スタイルに危うさを見る。》
当然の主張である。読売、産経、日経3紙の論説委員は、「東京」社説を拳拳服膺すべきである。
「毎日」社説も「まず歴史認識を明確に」と主張する。
毎日新聞記者出身のテレビの解説者は、ほとんどが、常に小泉ヨイショのゴマスラーばかりであるが、9月21日の「毎日」社説は、「東京」社説には劣るが、小泉ゴマスラーからの脱皮の姿勢をうかがうことができる。「毎日」社説は述べる。
《総裁選で安倍氏は「私はサンフランシスコ講和条約が結ばれた後に生まれた世代。あの時(占領期)に決まったことは変えられないという先入観のある時代は終わった。私たちの手で理想を描く」と繰り返した。それが「戦後レジームからの船出」であり、憲法改正や教育基本法改正への強烈な目的意識につながっているのだろう。》
このあと「毎日」社説は「だが、その気負いがいささか空回りしてはいないか」と述べている。「毎日」社説の姿勢そのものが曖昧であるが、しかし、安倍氏に対しては「明言」を求めている。「毎日」社説自身が曖昧さを残しているとはいえ、「日本が偏狭なナショナリズムに陥ることのないよう」求めているのは、当然の主張である。
「朝日」社説の見出しは「安倍新総裁 不安いっぱいの船出」。「朝日」社説は「東京」に比べると穏やかであり、「毎日」に比べるとややあっさりしている。安倍政権への明確な態度を固めていないように感じられる。
「朝日」社説はこう述べる。
《人気は安倍氏の最大の強みであると同時に、不安のもとでもある。彼の人気の源泉は靖国や拉致問題で見せた、北朝鮮や中国などに対する強硬な言動だ。それが世の中に広まるナショナリズムの風潮にふわりと乗った。》
《だが、頼みの人気が陰った時、さらにナショナリズムのアクセルを踏み込みはしないか。冷戦後の複雑化する世界を冷静に、したたかに乗り切れるか。不安は募る。》
「朝日」社説は「安倍政権への不安」を繰り返し述べるが、その「不安」の中身が何を意味するのか――極右化への不安なのか、政局不安定化への不安なのか――はっきりしない。
以上が、中央6紙の9月21日社説の「貧困」模様である。
「東京」以外の5大紙は、ほとんど見当違いのことばかり書いている。
いまの日本の最大の問題は、世界の流れから日本が取り残され、孤立しているところにある。日本政府の友はいまやブッシュ政権のみである。そのブッシュ政権そのものが世界から孤立している。孤立したブッシュ政権に追随するのみの安倍政権では、日本を世界の孤児にしてしまう。大新聞の社説は、コマことを真正面から論ずるべきであるにもかかわらず、これをしていない。
日本国民は、いまこそ根本的に考え直さなければならないときがきている。大新聞への「盲信」を捨てるべきである。9月21日の6大紙の社説を読むかぎり、私が購読をお薦めできるのは「東京」だけである。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02923.HTML
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