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2006年8月10日、武井保雄前武富士会長が76歳で病死した。武井前会長は、1968年に有限会社武富士商事を設立し、1974年に株式会社武富士と社名変更。同社を消費者金融最大手まで育てあげた。
長年、武富士は、顧客に対する強引な取り立てや従業員に対する非人間的な扱い、大蔵省(財務省)や警察、暴力団との癒着が指摘されていた。しかし、メディアが批判的な報道を行えば、直ちに名誉毀損で高額な損害賠償を請求する一方、新聞やテレビ、雑誌などへ年間100億円以上も広告宣伝費をつぎ込み、その実態があらわとならないよう工夫してきた。
2000年12月から2001年2月まで、武井前会長は山岡俊介氏(ジャーナリスト)の自宅の電話を盗聴した(実行犯は「アーク横浜探偵局」社員ら)。山岡氏は武井前会長から「武富士に批判的」と見られていた。
2002年秋、この盗聴は、中川一博元武富士法務課長が山岡氏へ情報提供したことにより、発覚する。2003年12月2日、武井前会長は、電気通信事業法違反(盗聴)容疑で警視庁に逮捕された。
武井前会長が逮捕されると、ようやく新聞やテレビも武富士を批判しはじめた。それまで、山岡氏が武井前会長らを電気通信事業法違反(盗聴)容疑で警視庁に告訴し、記者会見したとき(2003年5月27日)ですら報道しなかったのである〔既報〈第2次記者クラブ訴訟(9)記者会見すら報道しない記者クラブ〉参照〕
2003年、武富士を批判していたフリーランスは、軒並み名誉毀損で提訴された。損害賠償請求金額も、山岡氏に対し4248万5000円、野田敬生(のだ・ひろなり)氏(ジャーナリスト)に対し1748万5000円、三宅勝久氏(同)に対し1億1000万円、筆者に対し2億円と高額だった。
しかし、武井前会長逮捕後、状況が一転する。山岡氏と野田氏に対し、武富士と武井前会長は、「本件提訴は、当社が本件記事の内容が真実であると知りながら、貴殿が当社を批判するフリーのジャーナリストであることから、敢(あ)えて、これらの執筆活動を抑圧ないし牽制する目的をもってなされたものであり、(中略)当社の本件提訴により貴殿の名誉・信用を毀損し、多大な迷惑をかけたことにつき、深くお詫び致します」などとする謝罪広告を掲載したうえ、山岡氏に対し3100万円、野田氏に対し600万円を支払った。
三宅氏に対する訴訟は、最高裁判所で武富士敗訴が確定。筆者に対する訴訟は、武富士が「請求の放棄」(原告が自らの提訴に理由〈名誉毀損〉がなかったと認めること)の手続きをとった。その後、三宅氏と筆者はそれぞれ、武富士と武井前会長に対し、謝罪広告掲載と損害賠償(三宅氏が1100万円、筆者が2億円)を請求する訴訟を提起している(いずれも東京地方裁判所)。
2006年7月28日、三宅氏の訴訟は結審し、判決日が同年9月22日と指定された。三宅氏の代理人である釜井英法弁護士は「裁判の流れからして、負けるはずがない」と自信満々だ。
そのタイミングで武井前会長が死去した。裁判自体は、遺族が引きつぐが、三宅氏も筆者も、脱力感は否めない。三宅氏が言う。
「武井前会長から直接、謝罪してもらいたかった。大蔵省(財務省)や警察、暴力団との癒着についても、もはや全貌解明は不可能だ。胸をなでおろしている者がたくさんいるはず」
2006年8月12日16時すぎ、三宅氏と筆者は、武井前会長が居住していた「真正館」(武富士社員の研修施設も兼ねる)を訪れた(写真は正門前に立つ三宅氏)。偶然、近藤光武富士社長らが乗るBMWが正門から出てきた。近藤社長は暗い表情。内藤三峰子元取締役は筆者に会釈した。
すぐさま近藤社長らから連絡を受けたと思われる「警備担当」と称する武富士社員が駆けつけた。とはいえ、取材を妨害するわけでもなく、見張っているだけである。往年の武富士社員の迫力はない。
取材終了後、三宅氏と筆者は、脱力感を深めつつ、帰路についた。
http://incidents.cocolog-nifty.com/the_incidents/2006/08/post_57e7.html
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