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かつては社会に告知されることが、とても怖かった。愚かなことが社会に知られることによって、悪しきこと恥ずかしきことになり、とても顔向けができないと思うのが、常識人の感性であった。
子どもであれ、大人であれ、かつての人間は、愚行も悪事も自分の大きさにそった限界を知っていて、ギリギリのところでピタッと停めた。そこで停めている限りに於いては、若いからとか、男だからとか、女だからという妙な思いやりで猶予を与えられた。これが、大目に見て貰えるということである。
しかし、そのギリギリの限界―これは不思議なことに人によって違う―を、ちょっとでも越えた瞬間、手酷い仕置きを受ける。社会が許さないという風が吹く。
だから小社会で通用する甘えが、大社会では全く通用しないとことを自然に教えられ、常識の怖さと必要性を同時に学んだのである。
それが全く逆バネで働くようになったのはいつからであろうか。小社会の悪が大社会で恥にもならず、お仕置きも受けなくなったのである。
やはり、テレビの時代になってからで、それも、ワイドショ―という社会ネタを拡大エンタ―テインメント化するようになってからである。
テレビも、はじめから面白がればいいというつもりではなく、荒れた学校にしろ、積木くずしにしろ、年越し暴走族にしろ、公徳心なきファミリ―にしろ、また、プチ家出にしろ、援助交際にしろ、殺人ごっこにしろ、警告や啓蒙のつもりはあったと思う。
今、社会にあること、傾向化しつつあること、これを見捨てていいものかと、きっと思っている。だから、悲惨な実例をナレ―ション付き、音楽付きで劇的に見せる。きっと現状直視が未来を救うと意気込んでやるのだろうが、結果、大抵の場合は逆効果になる。劇的が煽ったのだ。
「あれをやっちゃおしまいよ」と思ってくれるのが、常識人である。しかし、現代で最も欠落している人の資質が、この当たり前の感性だということを忘れてはならない。
くり返すが、劇的に見せることによって、現代人―あえて日本人といわないが―はその社会性に安心するのである。テレビが取り上げたことによって、大きな社会に通用する悪事にバ―ジョンアップし、お墨付きを与えてしまうのである。
本来怖くてたまらない社会の目が、もっともっと怖がられていい筈のテレビ効果で、堂々と認知されたと胸を張ることになる。ゴミ屋敷の住人も騒音の隣人も、恥ずかしき例ではなく、むしろ、注目された人として類似を呼ぶ。
「人のふり見て我がふり直せ」は、もう通用しない。「あいつもやるなら、おれもやる」で、啓蒙も奨励になって、警告にならないのだ。
産経新聞 2006 05 27 阿久悠 書く言う
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